足利で思春期を

第44期

ひとりで知らない町に行くと走ってしまう。わたしは生まれてこのかた足が遅く、走っても無用に疲れるばかりなのだが、知らない町並みに晒されているとなんだか走りたくなる。

知らない町はすこし怖い。
繁華街や大きなショッピングモールならまだいい。おだやかな町で、建売の家や、ちいさなスーパーや、ランドセルを背負った子どもを見かけると、脳がゆれるような不安感におそわれる。
わたしは生活のことが怖いのだ。
知らない町に知らない衣食住があり、世帯があり、知らない人の時間が流れていることが怖い。繁華街にいてもその場にいる人のその瞬間しか感じないけれど、町中の洗濯物干しや、乾物の安売りや、三輪車は、いまここ以外の時間のことを想起させる。わたしがここを去ったあとにも知らない人の生活が続くことを思うと、たまらない気持ちになる。
小さいときにくりかえし見たある怖い夢がある。カエルのぬいぐるみをうっかり注視してしまうと、みるみるそこが拡大され、ぬいぐるみの全身、顔、目、と順々に視界から逸脱する。ぬいぐるみはどんどん巨大になり、いまや視界全体を埋める真っ黒な目のなかには細かい幾何学模様が書いてある、その模様がまた拡大されると、さらに細かい模様が書いてあり、没入するように無限に拡大はつづいてしまう。そのうちクラクションのような音が聞こえはじめ、その音量もまたどんどん大きくなって、目をさます。
知らない生活のことが怖いのもそれと同じ感覚だ。なにげなく見ている風景が思いがけない画素数を持っていて、拡大の可能性を持っている。人はあちこちで暮らしていて、世界は情報量が多すぎる。

イベント出演のために栃木の足利に行った。夜のイベントなのに前泊するというのんびりした旅程で行ったので、半日散歩したり、ラーメンを食べたり、「ぱんじゅう」を食べたりして過ごした。ぱんじゅうは足利の名物らしく、鈴カステラと今川焼きの間みたいなお菓子で、安価でおいしい。
休日だったからかもしれないけれど、足利の町中はほとんど人気がなく、山のつめたい匂いがした。コンクリート舗装された広い道沿いに、旧い美容院や、洋菓子店がまばらに並ぶ。足利駅前だからか住居はそんなに多くない。生活の匂いがしすぎない居心地のいいところだと思った。わたしはまったくのよそものになって、無人の路上を闊歩し、ときどき走った。
そうしながら、なんとなくここで思春期を過ごす架空の自分のことを想像していた。わたしがここに住む十七歳だったとして、やっぱり居心地がいいと感じるだろうか? それとも窮屈に思ったり、東京にあこがれたりするだろうか。ふるさとの好きなところとおなじくらい嫌いなところをつくるんだろうか。
知らない町の知らない生活のことをそこまで自分に引きつけて想像したのは、思えばそれがはじめてだったような気がする。足利の車道が広いのがわたしが育った名古屋に似ていたからかもしれないし、地方都市の団地で育つ女の子たちを描いた漫画を読んだばかりだったからかもしれないけれど、とにかく一度しか行ったことのない足利という町を、わたしはふしぎに親しく思うようになった。

おそらく、わたしが見知らぬ生活を不気味に思うのは、それが自分のことのように感じられ、それでいてどうしようもなく他人のことだからだろう。
わたしと見知らぬ誰かとはいうまでもなく異なるけれども、生命をもち、暮らしているという点においてだけは同じだ。日頃は他人の存在が自分の存在と同じだけの重みを持っていることを忘れて暮らしているけれど、町のなかで急にそれを思い出す。すると、自分のかなしみや、愛着や、費やしている時間が、たちまち「誰か」たちに敷衍される。そうすると町は自分の複合体のように思えてくる。
しかしそれはわたしではないので、わたしは困り、走るほかなくなってしまう。
足利に暮らすわたしのことを考えるのは、子どもっぽい空想遊びにすぎないけれど、快い。もちろん足利に暮らす十七歳のわたしなどという存在はどこにもいないが、もしかしたら似ている誰かはいるかもしれない。
それくらいの軽やかさで他人の暮らしと付き合うことにあこがれているような気もするし、一方でそうなることはとても暴力的でいやである気もする。

言い忘れていたけれど、わたしは怖い思いをするのはけっこう好きだ。蓮の花托を見るといやになるとわかっていて不忍池をのぞきこんだり、映画の怖かったシーンを反復して見てしまったりするたちだから、町のなかでたまらなく走りはじめるときも、ほんとうはどこか気持ちよくて、わくわくしている。
見知らぬ誰かが自分ではないことにおののいたり、町全体をながめたりすることも、ほんとうは好きなのかもしれない。