わさわさ年度末ラプソディ。

長期滞在者

ヨーロッパというか、西洋の主だった国ではそろそろ年度末である。
もちろんベルギーも例外ではない。
公の機関がほとんど機能しなくなる夏休みに向けて、あれこれ忙しい時期だ。
ぼくが通っている美術アカデミーもそういうモードになってきた。
大の苦手であるお片づけの指令がお上から出たので、渋々従ってみたり、
釉薬を決めかねて溜まっている素焼き状態の作品に慌ただしく施釉したり、
その隙間になんとかもうちょっとでも新しいものを作陶しようとしてみたり、
そんな感じで、落ち着きがない。
落ち着きがないのは生まれつきかもしれないので、年度末モードのせいにばかりはで来ないわけだけど、
それにしたってなんだかワサワサする時期なのだ。

しかも今年は卒業制作なんてことをすることにしてしまった。
卒業試験は4年間ある程度通えば、その時点で受けられるのだけど、
留年するという手もある。そうすれば、少なくとももう一年アカデミーに通って、
作陶を続けられるので、ほとんどの人が留年を選ぶ。

そして、一応この美術アカデミーを卒業すると学位がもらえる。
別に今更学位が欲しいわけではないのだけど、あれこれ事情があって、
卒業してみることにした。(させてもらえれば、の話だがw)
本来ならば、美術史の試験と卒業制作の両方をクリアしなければならないのだけど、
美術史は日本の大学で単位を取っているので、それを証明して免除してもらった。
あとは何かそれらしいものを作らなければならない。

ついこの間まで、卒業なんかしてもしなくてもいいと思っていたので、
卒業制作と言っても何を作ったものかとほんのちょっと悩んだ挙句に、
でかい花入用の壺かそれ的なものを三種類作ることにした。
で、とりあえず一つは完成したのだけど、今月半ばが審査日なので、
間に合うのかどうか、という感じで、落ち着かない。

そんな中で、急遽、とあるアーティスト支援組織のディレクターをやっている友人から、
二つの企画を持ち込まれた。
一つはブリュッセルの中心部にある彼の持ち家の一室での展示。
もう一つはその組織が今月末に行う野外イベントでのお茶会。
両方とも面白そうではあるので、安易に請け負ってしまったのだけど、
当然のことながら、ワサワサ年度末に拍車をかけることになった。
自業自得であるw

で、その展示の方はもうスグにでも始めたいということだったので、
スグに取り掛かって、花入ばかりを集めた上で、
花やら枝やらを投げ入れ風に活けて、苔玉まで作ってとりあえずは設置完了。
したのだけど、結局、その家の別の階で展示するアーティストが設置に手間取っている間に、
活けた花が散ってしまい、さらには枝も元気がなくなり、
その手入れや、新しい枝の調達にワサワサウロウロすることになってしまった。

友人宅のギャラリーでの展示の一部。

友人宅のギャラリーでの展示の一部。

で、もう一つの方の「野外のお茶会」についてもやりたいことがあるし、
期日も迫ってきているので、そっちの方の段取りも始めなければならないことに
なってしまった。当然ながら。
この企画に乗ってしまったのは、謂わゆる野点がやりたかったからではなく、
以前から「売茶翁」的なことをしてみたかったので、(予算も出るというし)
これはいい機会だと思ったからなのだけど、いざ必要なものを並べてみると、
それを調達するだけでも結構時間がかかることが判明。
この忙しい中、よくも安請け合いしたものだと呆れながらも粛々と道具集めを進めている。

ちなみに、この売茶翁プロジェクトはこんな感じになる予定。
オランダ語で「バックフィーツ」と呼ばれる、前の部分にでっかい箱が設えてある自転車を調達して、その箱の中に煎茶(別に抹茶でもいいのだけど)の道具を仕込んで、イベント会場に乗り付け、そこで湯を沸かしてイベントに参加している人たちにお茶を振舞う、という単純なもの。
単純だけど、まずは、じゃあどうやって湯を沸かすのか?
それについてだけでも、キャンプ用のコンロを使うのか、カセットコンロにするのか、七輪でも調達するのか、湯を入れるのは釜なのか薬罐なのか、とか色々選択肢が出てくる。なので、キャンプ用品屋に行ってみたり、アジア系の雑貨屋に行ってみたり、蚤の市を物色してみたりしなければならない。なるべく侘びた感じにしたくはあるので、ピカピカのキャンプ用品はできるなら避けたいところだが、こっちで七輪なんてそうそう手に入るわけがない。う〜む……

この企画用に見つけた年代物の「バックフィーツ」。元々は魚屋がこれで魚を運んでいたらしい。

この企画用に見つけた年代物の「バックフィーツ」。元々は魚屋がこれで魚を運んでいたらしい。

とまあこういう感じで、グルグル考え、ウロウロ徘徊しながらあーでもないこーでもないとやっている今日この頃です。おしまい

で、言うまでもなく、おしまいというのは嘘で、この先まだ続けますが、こんな風になかなか決められないことが多い日が続くと何かをズバリと決めたくなるのが人情というもの。というわけで、幾つか道具を揃えることにした。

ここのところ新しいアトリエ内や展示のために花枝を行けることが多いので、以前友人の庭師から譲り受けた岡恒の植木鋏を使っていて、その定評のある切れ味で重宝してはいるのだけれど、経が2、3センチある枝を切るとなると、歯が立たない、いや、さすが岡恒、歯はしっかり立つのだけど植木鋏の構造上、太い枝を切断するのは至難の技だったりする。なので、強力な剪定鋏と切れ味のいい折り畳み式ノコギリを購入することに決定。早速ブリュッセルで手っ取り早く入手可能なベストツールを探した結果、剪定鋏はスイス製のフェルコというブランドの最もスタンダードな「2」というモデル、ノコギリの方は日本のシルキーというメーカーの「ポケットボーイ170」というモデルが良いということが判明。さらには最寄りに良質な道具を揃えた店を発見して、二つともそこでゲット。

刃物系道具たち。左からフェルコ2。岡恒の植木鋏。有次の切り出しナイフ。シルキーのポケットボーイ170。ふふふ。

刃物系道具たち。左からフェルコ2。岡恒の植木鋏。有次の切り出しナイフ。シルキーのポケットボーイ170。ふふふ。

よく切れる刃物を持つと色々切ってみたくなるのが人情というもので、早速、枝やら板やらをチョキチョキギコギコ切りまくってみる。

快感。である。切れまくり。ふふふ。

いや、確かにいい道具を使うのは何にしても気持ちがいいものなのだけれども、刃物に関してはあんまりむやみに切りまくっていると、花枝を切るにしてもその命の切片を無駄にすることにもなるし、周りにアブナイ人だと思われる可能性も大なので、手持ちの花入がいっぱいになったところで切断行為を中断して、その先のことに想いを馳せることになる。

岡恒の鋏が切れにくくなったら研がなければならない。砥石は何がいいのだろう…

ファルコが油をさしても切れにくくなったら歯を取り替えなければならない。どうやるのだろう…

ポケットボーイは結構簡単に歯が変えられるらしいのでお手軽だが、取り替える前に自分で目立てはできるんだろうか…

まあ、こういう類のことは今やYouTubeで大体学べるわけだけど、こういう風な想像、メンテナンスや補修を自分でこなせるのかとか、少なくともそれが可能ではないかと思わせてくれるを道具との関係がぼくは好きだったりする。だから未だに銀塩カメラが手放せないのだろう。

ここでいきなり白状するけれど、実は蚤の市で「救出」した銀塩カメラを修理しようと思い分解したはいいが、結局元に戻すことができずに切ない思いをしたことが何度もある。そのカメラたちには全く持って申し訳ない限りだ。だが、そのカメラたちの身を呈した尊い犠牲によって、そこに凝縮された技術の片鱗だけでも分解者には感じとることができ、技術者たちへの尊敬の念が否応なく定着していくのであ〜る。(どど〜ん!)
例えば、そういう好奇心とちょっとした冒険と失敗(あわよくば成功)という過程の実際もしくはそこに向かわせる想像は、デジタル製品の内部のブラックボックス性からはなかなか触発されない。
とは言っても、プログラマーやハッカーのような人たちの中にはブラックボックスの内部で起こっているだろうことに触発される人もいるのだろうけど、そういうレベルで内部に関わることができたとしても、触れることができたり、その構造にじっくり見入ることのできる部品群がアフォーダンスを含んだ全体のイメージもしくは象徴として、その道具の機能と使う人をつないでいるような、そういうつながりにはならないんじゃないかと思う。
早い話、ブラックボックスになっているデジ道具は他人行儀なのだ。なんかエゴ的なものを内蔵していて、こっちの顔色を伺いながらでも結局のところは製造元の利益になることしか考えてないのかもしれないよな、とうっすらと感じさせ続けてしまうオーラをまとっているような気もする。2、3年経つとさっさと引退してしまうものがほとんどだし、だから生涯の友達や伴侶にはなれない。(こういうことを書くのも、超ハイクオリティだと思っていたリコーの初代デジタルGRがあっという間に時代遅れになってしまった時にすごく裏切られたような気がしたのを引きずっているのかもしれない。A型は根にもつタイプらしい。)

まあ、いまどき生涯の友達や伴侶なんかを求めている人ももうそんなにいないのかもしれないけれど、いたらいたで楽しいと思うんだけどなあ。デジ道具ばっかりの世の中になったらもっと他人行儀な世間になっていくんだろうなあ。「いじる」という言葉が人の表面的なキャラを軽く弄ぶような意味で使われているけど、ああいう風に人を表層的にだけいじることができるのもデジ道具蔓延の影響なんだろうなあ。デジ道具たちが全てロボット化されて、それぞれにそれぞれの自己を持つようになったりするまでは、一方的他人行儀は解消されないんじゃないかなあ…

あぁぁぁっ!!!こうやって書きながら、このデジ道具のブラックボックス性がなんかに似てると思ったら、あれだ。モナド。窓のないモナド。なるほどなるほど、今の所デジ道具たちはまだ彼らにとっての神であるところの製造元企業の予定調和によってその振る舞いを決められているということなわけか。でも、窓のないモナドってのもあの(スピノザに面会したことがあるにも関わらず彼が異端視されてからはそんなことはなかったことにしてしまうようなところのある、とても官僚的な)ライプニッツが何か無理矢理キリスト教教会の意向に合わせて捏造したっぽい感じもするし、神なんか設定しなければモナドに窓が出来てもっと自由な振る舞いをするはずだから、やっぱりデジ道具はいづれもっと自立した方向に向かうんだろうな。デジ道具の解放なくして人間性の再解放なし。たぶん。