ミトコンドリアとラブソング。

長期滞在者

年末から体調を崩して静養していて、
ふと気がついたら新年でしたw
新年あけましておめでとうございます。
そして、なんと年男であることにもふと気がついてガビーンとなった。
よくぞここまで生き延びたものである、とか、
よくぞここまで何者にも成らずに来られたものである、とか、
よくぞここまで人の迷惑顧みず勝手気ままにやってこれたものである、とか、
そういう感慨はひとまず来月やってくる誕生日にまで保留しておくことにはしたものの、
次に年男を迎える時には齢六十にも達するのかと思うと、末恐ろしい。
人生もすっかり後半戦真っ只中ということです。
なので、覚悟してかからねば、とか似合わないことを思ったりもする。
こんな風に自分の身の上の無常迅速にシミジミしながらもジリジリと焦っているのも、
吉川英治の『三国志』や『私本太平記』なんかを立て続けに読んで、
むちゃくちゃ濃い人生を生きた人々の生き様に触れているからかもしれない。

『私本太平記』は周知のことながら建武の新政前後のことが中心なのだけど、
大学時代に網野善彦の『異形の王権』やら中沢新一の『悪党的思考』なんかを読んで、
後醍醐天皇が見せた中世的で呪術的なエネルギーの発散(というか爆発)が
バサラ大名や悪党のような形で巷にも発露し、異端の風が吹き荒れていた情景を
憧憬した経験もあるので、ついつい明け方まで読み続けてしまうことも、
ここのところしばしば。(正月なのでこれもまたよし。)

『私本太平記』を読み進めながら、というか楠木正成の生き様を読んでいると、
親鸞の悪人正機説の「悪」っていうのは悪党の「悪」でもあって、
多分、善悪という時のそれとはちょっと違って、
「異端」というニュアンスが強かったんだろうなあ、とか
改めて感じ入ったりもする。
そういう意味ではこの「悪」は白川静が『孔子』なんかで強調する、
「狂狷」という言葉にも通じたりするのだろうなあ、
そういえば、インドの「バクティ」という言葉
(そういえばベジャールの作品にこのタイトルのものがあったな。懐かしい。)も、
その辺りに通じるものがあるんじゃないかなあ、
とか、そういう知的反芻を繰り返したりもできる物語読書というのは、
意外と機会の少ないものだったりする。
だから、こういう良質な小説に出会うのは本当に有り難いことで、
おかげで、あちこちあれこれと好奇心の触手が心地よく動き始める。

単純に後醍醐の周りにあった政治文化的事柄だけ見ても面白い。
宋学を取り入れたこと、真言立川流なんていう怪しい密教に入れ込んだこと、
(立川流というと談志を思い出すけど、異端つながりというのが面白い。)
つか、あろうことか帝自ら護摩を焚くとかありえないようなこともやってのけた。
さらには(確か)独自に貨幣を発行しようとしたこと、
悪党や供御人を自分の戦力としてどしどし登用したこと、
芸能と深い関わりのある時宗とも通じていたらしいこと、
とか言いながら、実は禅宗に帰依していたこと、などなど。
これだけネタあれば、また読書やらネットリサーチやらが楽しくなるというものだ。

とはいえ、こういう具体的なことをピックアップする気になるのも、
やっぱりこういう事柄がうまいこと埋め込まれた物語があればこその話ではある。
(そういう意味では物語というのは記憶術にも関係してるはずなんだな。)
物語の真髄というのはやっぱり神話に尽きるわけで、いい物語というのは、
そこにどれだけの神話性が秘められているかどうかにかかっているらしい。
で、その神話性というのがどこから滲み出てくるかといえば、
その構造と、そこに組み込まれた象徴的な意味からだということだと
ジョセフ・キャンベルが看破したということになるらしい。
で、その象徴的意味を含んだ構造をジョセフ・キャンベルは「モノミス(monomyth)」と名付けた。
これはまあ、神話における序破急とか起承転結に当たるものだけど、
モノミスの場合は17段階ほどあって、しかもその段階ごとに(象徴的に)
どんなことが起こるべきなのかが分析されている。

まあ、詳しいことは面倒なのでウィキに譲るとして、
その神話性が誘い出す知のフィールドに身も心も委ね切ってみたいなあ、
と思って周りを見渡してみると、ちょうどいいというか、
これしかないみたいな映画をやっていたので、観に行ってみた。

神話学といえばジョセフ・キャンベル、ジョセフ・キャンベルといえばジョージ・ルーカスの先生、
ジョージ・ルーカスといえばもちろん「スターウォーズ」。
ということで、『スターウォーズ フォースの覚醒』。観てきました。
ざっと思いつくだけでも、ゾロアスター的な光と闇の格闘がベースになって、
アーサー王っぽいところとか、オイデプスっぽいところとか、
素戔嗚っぽいところとか、神話だらけw
ルーク・スカイウォーカーのキャラがどんな展開を見せるのかが、
次回作のポイントになるんだろうけど、彼の右手の義手が、最初はその表面を覆っていた
人工皮膚を失って機械構造だけがむき出しになった状態になっていたのが
ちらりと見えていたから、きっと彼は「不具の王」のようなことになっていくのかもしれない。
(ロンギヌスの槍とか出てきたりして。したらエヴァ…w)
そして、昔は神話がそうであったように、この作品はしっかりエンターテイメント。
そのための演出が徹底している。作っている人たちは楽しかっただろうなあ、とか思いながら観終えた。

で、今まであんまり考えたことなかったのだけど、実は神話にはそれがメインストーリーではないにしても、
恋の話がつきものだったりする、ということに改めて気がついた。
レイア姫とハン・ソロとの恋とか今回の主人公二人とかの成り行きもそうだけど、
基本的に神々は恋多きものだったわけで、恋バナがなければ、どんなにいい物語でも、
出汁の効いてない味噌汁とかガラムマサラが入っていないカレーとか、
辛子味噌を入れない天一のラーメンみたいなもので、物足りない感が募ると思う。
ペルセウスがアンドロメダに恋してなかったら英雄になれたかどうかわからないし、
アラゴルンとアルウェンの物語がなければ『指輪物語』はかなり殺伐としたようなきがするし、
『マトリックス』もネオとトリニティの恋とサイファーの横恋慕がなければ話は盛り上がらなかっただろうし、
『攻殻機動隊』でさえ草薙素子とバトーの間に恋めいたものが絶妙で必殺の隠し味のように閃いたりもする。
『私本太平記』にだって足利尊氏と藤夜叉、後醍醐と中宮康子、服部元成と卯木とかのカップルに関する挿話が
全体の流れに潤いを与えている。多分、恋バナがなければ壮大な物語は片手落ちになるんだと思う。

ちょっと脱線するけど、今回のスターウオーズの新キャラの中にマズカナタという人(?)が登場する。
どうもヨーダと同じ種族じゃないかと思われる風貌と只者ではない洞察力を持ち、
反乱軍の多くの人望を集めているらしい。もしかしたら彼女はヨーダに縁のある人なんじゃないかと、ふと思った。
思ったついでに、マズカナタとヨーダは縁があるどころか、以前はカップルだったとしたら
次回以降の作品でヨーダの恋バナが挿入される可能性もあるのではないか、
と妄想が膨らみ始め、さらには、
ヨーダほどの人ならば若い頃にはきっと巷ではモテモテブイブイだったに違いない、
その経験がきっとフォースの達人になるための礎にもなってもいるに違いない、
とか妄想が連鎖する。
そこまで行って、あぁ〜、なんかそういうキャラクター、どこかにいたなぁ、誰だっけ?
と、脳内ググりが始まって検索結果が出てみると、なるほどあの人か、と納得した。
隆慶一郎の『吉原御免状』に出てくる幻斎こと吉原の創業者庄司甚内だった。
ヨーダも幻斎も剣の達人で、ヨーダはルーク・スカイウォーカーの、
そして幻斎は主人公・松永誠一郎の師匠的存在。
どちらも賢者であって、ヨーダはどちらかといえばタオイスト的賢者、
幻斎は立川談志的賢者。
上記の妄想に敢えて盲従してしまえば、どちらも賢者への道は女性だったということに。
なるほどなぁ…

閑話休題。妄想はとりあえず横に置いておくとして、
恋バナ無き神話的物語は片手落ちなんじゃないかと仮定してみた上で、
時代は変わってもラブソングが手を替え品を替え、変装して変奏されながら、
永遠に「恋のあるある話」を歌っているに過ぎないとも言えることを考えると、
恋バナ自体がモノミスのような普遍的構造を持っているのではないのか、
(「3年目の浮気」とか「5年目の破局」とかか?w)
いや、神話ができる以前に「恋バナあるある」が人類の中で先にたくさん蓄積されて、
そこからいろんな神話が作られてきたんじゃないか、とか思うようにもなってきた。
だいたい、男と女の違いが歴然と、経験的そして体感的に積み重なって、
「男と女のあいだには、深くて暗い川がある」とか、
「花が女か男が蝶か」「花が散る時、蝶が死ぬ」とかみたいな認識に至らなければ、
きっと世の中には光と闇があるとか陰と陽があるとか上と下があるとかみたいな、
はっきりした対概念は生まれてこなかったんじゃないか、というのは言い過ぎにしても、
対概念が人類史においてそれほどポピュラーにはならなかったんじゃないかとも思う。
という成り行きで、まあ当然と言えば当然のことでもありそうなんだけど、
今日までのところでいうと、恋バナは神話に先行する(たぶん)、という結論に至りました。
だからなんだという感じではあるけど、まあ何かがちょっとぼくの頭の中でスッキリしたのでした。
神話的物語にはいろんな意味やら象徴やらがたくさん詰め込まれているわけだけど、
それも結局は恋の話をするためなんだな、みたいな。

で、こうやって書いてるうちに、あれ?この神話というか大きな物語の中に取り込まれた恋バナっていう構図、
なんかに似てるかもしんないなぁ、何だっけ何だっけ、う〜ん、と思ってたら、あれでした。あれ。
細胞に取り込まれたミトコンドリア。
多田富雄の本で読んだ免疫系の働きの流れと映画『エイリアン』の脚本が似てるのを見つけたり、
三木成夫の本で読んだ生命の歴史との流れが、モノミスに似てるのを見つけたりしたとき以来の発見!
と自分で勝手に喜んでるのだけど、細胞とミトコンドリアとの関係が
より大きな物語とそこに組み込まれた恋バナとの関係と相似関係にあるという考えは、
なかなか、というかかなり楽しい。
とりあえずはミトコンドリアとラブソングの相似関係、探ってみようっと。ふふふ。