ヤツシ・ルネッサンス。

長期滞在者

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「(「ヤツシ」とは)常態を超えた、もしくは、身分的秩序を逸脱
した状態を示す言葉、あるいは、当人にとっては、異常なもしくは
非日常的な時空に存在する状態を表す言葉である。」
「身分を下降させて、本来の生活状況とは違う生活状況に生きる人
物をヤツシという。けれども、ヤツシにとって大切な点は、単に下
降した生を生きるということだけではなく、下降した生を生きなが
らも、本来の生を保持しているということにある。(中略)つまり、
存在の両義性という点にヤツシの特徴がある。」
今尾哲也著『歌舞伎の歴史』岩波新書 より
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やつす【俏す・窶す】
①目立たぬ姿に変える。みすぼらしく様子を変える。
②出家して姿を変える。
③痩せるほどに切に思う。熱中する。
④行儀をくずす。うちとける。くつろぐ。
⑤略す。くずす。
⑥容姿をつくる。化粧する。
『広辞苑』より
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やつす【俏す・窶す】
①目立たないように姿を変える。みすぼらしく姿を変える。
②出家して姿を変える。剃髪する。
③形を変えてまねる。形を似せて作る。
④(おもに「身をやつす」の形で)そのことにうち込んで、やせる
思いをする。
⑤行儀をくずす。くつろぐ。
⑥字形をくずす。字画を省略する。
旺文社『全訳古語辞典』より
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ちょっとばかり思う所があったので「ヤツシ」について調べてみた。
特に前掲の『歌舞伎の歴史』の中には何とも興味深い解説が山ほど
あって、16世紀後半から17世紀前半、そして17世紀後半から
18世紀半ばにわたる、知と身体性の変遷に関する記述は、天才・
高山宏センセーの著作なんかと並べ読んでみたらさぞかし面白い発
見があることだろうと思ったりもしているのだけども、でもそれは
また今度しておかないと、結局また何も書かずに終わってしまうだ
ろうとの危惧があったので、とりあえずこの場は先ず目標とする所
だけを攻めておこうと心に決めたのだった。

つづく

で、早速そのつづきを始めると、この『歌舞伎の歴史』では「ヤツ
シ事」の成立が歌舞伎の成立に大きな役割を果たしたと書かれてあ
るけれども、登場人物の役柄の類型化が果たした役割は当然それだ
けではないはずだ、と思う。
何となれば、まずこの「ヤツシ」の定義を考えれば、そのカテゴリー
には、歌舞伎成立時期と目される17世紀よりもっと前のスサノオ
の神話も大国主命の伝説も光源氏の顛末も安珍と清姫の物語も大燈
国師の乞食行も徳川家康の竹千代時代の苦労話もぜーんぶ含まれる
わけで、何も歌舞伎の台本に限ったことではなく、あらゆる貴種流
離譚やシンデレラ的物語や、世界中の神話や物語さえもそこに含む
ことが出来るわけで、そこに含まれることになるということは、例
えばここの文脈でいえば歌舞伎の台本に「ハリーポッター」や「ス
ターウォーズ」や「マトリックス」が翻案されてもいい、というか、
それが方法的には可能になるわけで、その題材は言ってみればグロー
バルに検索し使用することが可能になる、ということなのだから。
(で、たとえば18世紀初めには中国と日本が舞台の『国性爺合戦』
が出来たりする。)
「ヤツシ」がカテゴリーとしてだけではなく、方法として抽出され
たということは、ヤツシ事といわれる作品が量産されたという歴史
的事実を観れば明らかなわけだけれど、そのことを連想的、もしく
はアナロジックに展開させれば、そのことが暗示し得ることは歌舞
伎や文化一般の範囲を超えて行く。
この時期、何かを製作するための方法が抽出されてそれが技術を一
般化そして普及することを推し進め、または、ある価値や意味を持っ
たもの(ここでは例えば歌舞伎の脚本)が一つの抽象的な価値・意
味(例えば「ヤツシ」という範疇/方法)によって別の価値・意味
を持ったもの(別の脚本)に、簡単に変換もしくは交換可能にして
いったのだとしたら、そのことからだけでももう、その頃の社会に
おける産業化の進行や、貨幣経済の台頭や、分類学的もしくは科学
的なものの見方の浸透の状況をうっすらとでも読み取ったり想像し
たりすることは可能だ。
さらにそこで、ミッシェル・フーコーの『言葉と物』とかを高山宏
『近代文化史入門』や『表象の芸術工学』あたりとタイモン・スク
リーチの『大江戸視覚革命』や『江戸の思考空間』なんかと挟みな
がら考えてみたならば、トーゼン、その頃の日本にもまた言語や貨
幣や認識論的思想の醸成といった社会や経済や文化の骨格における
大きな転換期にあったのだということが見えてくるだろう。つまり
は歌舞伎の創造過程もその頃の世界の動向から全く無縁ではない、
どころか、そのことを日本の独自の文化として思いっきり表象して
いるということになるのでアール。どど〜ん←大太鼓

とは言いながら、そっちの方に話がそれると酷く面倒なことになる
し面倒くさいので、話を「ヤツシ」に戻すけれども、この窶すとい
うことの意味を改めてこの『歌舞伎の歴史』をじっくり読み込んで
みると、ぼくなんかはついつい石ノ森章太郎の『仮面ライダー』と
かを思い出してしまうのだ。いやいや、それだけではなく『妖怪人
間ベム』も永井豪のちょー名作『デビルマン』も岩明均の『寄生獣』
も主人公たちはみんな「当人にとっては、異常なもしくは非日常的
な時空に存在する状態」にあり、「存在の両義性」の中で葛藤する
ということも含め、「ヤツシ」として世をハカナミながらぼくの頭
の中を行ったり来たりし始めるのだ。(ちなみに、あの水戸黄門も
「越後のちりめん問屋」に身をヤツシて旅をするわけだが残念なが
らあんまり「両義性」に悩んでいるフシは無い。)
『仮面ライダー』は主人公・本郷猛がショッカーという悪の秘密結
社に「怪人」としてバッタの能力を持った人造人間に改造されたけ
れどもかろうじて脳を改造される直前に緑川博士に助けられ(ちな
みにここで助けられていなかったら本郷猛は「仮面ライダー」では
なく「蜘蛛男」や「ミミズ男」などと同様に「バッタ男」という怪
人として極悪非道の所行に手を染めていたに違いない)、その後は
「本来の生を保持」つまり人間としての良心を保ちながらショッカー
と戦い続けるというお話。
妖怪人間ベム・ベラ・ベロは「いつか人間になりたい」と思ってい
るが、つまりは「人間」が本来彼らがあるべき姿であって、「妖怪」
は仮の姿という解釈が成り立つ。つまりそのような醜い姿に今は身
をヤツシていているが、陰ながら善行を積んでいつかは人間に、と
いうお話。
『デビルマン』は悪魔に体を乗っ取られた主人公・不動明はしかし
心は人間のままで、「ア〜クマのちぃからぁぁ、身ぃにぃぃつぅぅ
けた〜、正義のぉヒィィロォォ、デビぃルマ〜ン、デビルマ〜〜ン!」
として、超音波であるところのデビルアローや地獄耳であるところ
のデビルイヤーや空を飛ぶための翼であるところのデビルウィング
や熱光線であるところのデビルビームなどなどを駆使しながら、人
間を守るためにデーモンの軍団と血で血を洗う仁義なき大抗争を戦
いぬくも、心ない人間たちには差別され、蔑まれながら人間と悪魔
の間の存在であるという両義性に悩まされながら葛藤を続け、結局
は非道な人間たちとも戦うはめになり、その後人間は滅亡(という
かほぼ自滅)。最終的にはデビルマン軍団対デーモン軍団のハルマ
ゲドンまで行ってしまい、両軍壊滅、デビルマン本人もサタンと相
打ちとなり死んでしまう、という壮大な神話じみたお話。
『寄生獣』は基本的に『デビルマン』と同様で悪魔の代わりに人間
に寄生しその脳を乗っ取って他の人間を食らうことを目的とした寄
生虫が主人公・泉新一(「碇シンジ」に語感が似てるなぁ)の脳の
乗っ取りに失敗してその右手に寄生することになり、「ミギー」と
呼ばれることになるその寄生生物と新一が恊働して、艱難辛苦を乗
り越えて人食いの寄生生物との戦いに決着をつけることになるとい
うお話。

とりあえずこれらの例だけ眺めてみても、別に「ヤツシ」は歌舞伎
の世界だけにあるものではない、というのがわかる。漫画の中にだっ
ていっぱいあるのだ。そうしてみると、『デビルマン』を歌舞伎で
やったって良さそうなものなのだけども、なかなかそうはいかない
のがデントーゲーノー肩書きがくっついたものの辛いところなのだ
ろう、と勝手に納得してみたりする。が、大コケするのがわかって
いる漫画やアニメの実写版映画に大金をかけるくらいなら、その歌
舞伎版を作ったらいいと思ったりする。『デビルマン』も『新造人
間キャシャーン』もヤツシ事としてはけっこう面白いものになると
思う。こじつけではあるけれども、成田屋は成田不動に帰依してる
くらいだから海老蔵が不動明の役をやるといいかもしれない。ちな
みに『歌舞伎の歴史』によると戯作者・並木正三が1761年に発表し
た『霧太郎天狗酒醼』(きりたろうてんぐさかもり)という作品に
は喜之平という人物が登場するらしいのだが、この喜之平は天狗と
人間の間、魔界と人間界の間に存在するものとなり(デビルウィン
グさながらの天狗の羽が背中についてたりもする)、その両義性に
苦しみながらも、自死することで忠義を全うする、ということになっ
ているらしい。自死という点では異なるが、こうなると喜之平は全
くデビルマンのご先祖様といっても過言じゃない。

余談だが、もしかしたら『カウボーイ・ビバップ』だって、ハリウッ
ドでキアヌ・リーブスがスパイク役で実写版にするよりも、歌舞伎
にした方が断然面白くなるかもしれない。そんな風になれば世界中
で年々増加するオタクたちが歌舞伎座に大挙して乗り込んできて、
歌舞伎の人気は急上昇し、世界中から公演の依頼が殺到し、観客動
員数の減少にも歯止めをかけることが出来るだろう。たぶん。
そして、もしもそんなことが起こったとしたら、歌舞伎役者は舞踊
をヒップホップもしくはブレイクダンスから学ぶことになるだろう。
というのも、歌舞伎の所作は17世紀後半あたりから人形浄瑠璃の
人形の所作を取り入れ始めたわけで、つまりフィクショナルな機械
的身体性を役者がもどいたわけで、ここでちょっと独断的に人形浄
瑠璃をアニメの立体版御先祖様であると仮定してみた場合、1980
年半ば辺りからアニメ(ーション)の動きを積極的にダンスに取り
入れてきたのがヒップホップなのだから、もし歌舞伎版『デビルマ
ン』や『妖怪人間ベム』が作られることになれば、当然一日の長の
あるヒップホップを歌舞伎が取り入れるか、ブレイクダンサーたち
を歌舞伎役者に起用するかということが行われてしかるべきだろう。
(余談終わり)

ところで、先に挙げた4つの例、『仮面ライダー』『妖怪人間ベム』
『デビルマン』『寄生獣』それぞれに登場する主人公たちは、その
キャラクター設定上「両義性」を必要とするわけだが、その両義
獲得のための方法が大まかに二つに分けられそうだ。試しに分けて
みると、

1)どんなに体が本来のものではなくとも、その「脳」もし
 くは「理性」だけはオリジナルを保持していて、それによっ
 て「人間性」が保証させるというタイプで、本郷猛と泉新一
 がここに入る。
 2)(恐らく)脳も含めて体全体が本来のものではなくなっ
 ているが、人間的な「心」もしくは「感情」を保つことによっ
 て「人間性」を保証するタイプで、もちろんここには妖怪人
 間たちと不動明が含まれることになる。

ここでは1)を「(人間的)理性保持型ヤツシ」、2)を「(人間
的)感情保持型ヤツシ」と名前を付けておくことにする。そして例
えばこの二つを結ぶ線をその横軸にして、さらに『歌舞伎の歴史』
内で今尾氏が分類している「知略型ヤツシ」と「落ちぶれ型ヤツシ」
を縦軸として以下のような図にすると、ヤツシの構造学的な分類が
可能になるだろう。

(ヤツシのための二軸四方図)

            知略
             │
         4   │   1
             │
  理性─────────┼─────────感情
             │
         3   │   2
             │
           落ちぶれ

可能ではあるとは思うものの、分類してどうする?という自問もあ
ったりして、実はそれに答えるのもやっぱり面倒なので、ここで歌
舞伎のヤツシ・キャラをリサーチして分類・分析する作業はやめて
おくことにして、とりあえず、例に挙げた4つのマンガ/アニメ・
キャラたちはどれも「落ちぶれ型」(図の区分でいえば『仮面』&
『寄生』は3、『デビル』&『妖怪』は4)に入るだろう、という
ことだけ書いてここは切り上げることにする。

さて、実はここからが本題。もうずいぶん前のことになってしまい、
今更そのことに言及するのもこっ恥ずかしいような気もするのだけ
ど、以上の見方を持ってすると、あまりにも的外れな評が多いので、
以下、簡単にぼくなりにある日本のテレビドラマの分析をやってみ
たいと思う。そのテレビドラマとは『半沢直樹』である。

『半沢直樹』というと、久々の「勧善懲悪」の物語だとか、現代版
『水戸黄門』だとか言われているけど、ぼくから言わせてもらえば
全くとは言わないまでも、やっぱり的外れである。
見ようによっては、主人公の堺雅人扮する半沢直樹が水戸光圀で彼
の同期の親友である及川光博扮する渡真利忍と滝藤賢一扮する近藤
直弼(この二人も実は「ヤツシ」であるのだけど、詳しくは面倒な
ので省略)が助さん格さんに見えるのかもしれないが、そもそもそ
れがズレている。「ヤツシ」の観点から言うと、水戸光圀一行も越
後のちりめん問屋(全くどうでもいい話だが、ぼくは幼い頃、この
「ちりめん問屋」が「ちりめんじゃこを扱う問屋」だとずっと信じ
ていた。)に身をヤツシて世直しの旅を続けるわけだが、その立場
に両義性にまつわる悲壮感はほとんどない。水戸の御老公をそれと
知って潰しにかかってくる輩も滅多にいないし、風車の弥七とかげ
ろうお銀は無敵なわけで、まったく安泰。めでたしめでたしの大団
円は全く目に見えた予定調和なのだ。そんな安心感のあるヤツシな
らば、『半沢直樹』の中で言えば、北大路欣也扮する中野渡頭取が
どこかの中小企業の社長にでも化けて、全国の支店の経営状態をチェッ
クして回っているようなものだろう。水戸光圀は隠居後に古墳調査
や神仏分離の八幡神社の整理や、おそらくはまだ「大日本史」の編
纂にも関わっていただろうからけっこう忙しいご隠居だったはずな
ので、世直しの全国行脚をするとしたら気晴らしか趣味みたいなも
のだろうから、悲壮感なんて無くて当然ともいえる。水戸黄門の世
直し旅は遠足とかピクニックのようなものなのだ。
半沢の場合は、あえて父親の仇である大和田常務の勤める東京中央
銀行の銀行員となり復習の機会を虎視眈々とうかがい、ついにそれ
を果たすわけだが、仇である組織の内部に入り込むために、それ相
応の知識を得、銀行員になりきってしまうというのは、仮面ライダー
を例えにすれば悪の秘密結社に入社するために自らすすんで自分を
怪人ギンコーイン男とかに改造したのだと考えれば良いわけで、本
郷猛でさえそこまではやらなかった。というか、出来れば改造され
たくなんか無かっただろうから、半沢直樹の覚悟は相当なものだっ
たに違いない。(そういう意味で半沢直樹は「知略のヤツシ」の極
北だ。)半沢は水戸黄門のお気楽ヤツシとは全く正反対のヤツシな
のだ。

勧善懲悪劇だというのもどうかと思う。確かに、5億円を回収し石
丸幹二扮する浅野大阪西支店長をやり込めた時も、伊勢島ホテルの
融資問題を解決して香川照之扮する大和田常務に土下座させた時も、
それらの上司たちを(半沢を陥れようとしたことによって)悪と決
めつければ、半沢直樹は善であって勧善懲悪のヒーローということ
にもなるが、半沢自身が例えば浅野支店長に家族を巻き込む脅しを
かけたり、例えば疎開資料を隠した上に、そんなものは無いと片岡
愛之助扮する黒崎検査官に大嘘をつくなど、かなりきわどい手を使
うわけだし、とても善人だとは言いがたい。実際、第三話の終盤で
赤井英和扮する竹下社長の台詞には「半沢はん、おれ、あんたのこ
とよぉわからんようになったわ。ほんまはモノごっつい悪いやつな
んちゃうかな、って。なぁんてな。別にそれでもかまへん。なんも
かんも正しいやつなんて、おらんもんな。」というのがある。その
辺りがきっとこのドラマを面白くしている要因の一つなのだが、名
前の「半」が象徴するように(ここでまた余談を入れてしまうが、
恐らくこの「半沢直樹」というネーミングは天才漫画家・浦沢直樹
の本歌取りであると思われる。恐らくは映画『マトリックス』の主
人公ネオの本名「トーマス・アンダーソン」が天才映画監督ポール=
トーマス・アンダーソンからとられているのと同断だろう。この本
歌取りネーミングにより本歌にあたる天才作家たちの天才性やその
ギョーカイにおける英雄性や非凡性をこれらの主人公たちに暗示的
に付加し、観る側の脳裏に暗に刷り込むという意図があるものと思
われる。)、半沢直樹は、善と悪を半分ずつに生きるキャラ設定が
されていて、結果的に勧善懲悪に見えたとしても、彼自身は両義性
に引き裂かれるような立場にあるわけだから、単純に勧善懲悪だと
言い切れるものではないのだろうか。そういう葛藤を抱えながらも
様々な困難を克服して目標に辿り着こうとするその過程が、最大の
見せ場なのではないかとぼくなんかは思うのだが、そうするとむし
ろ半沢直樹は『スターウォーズ』のルーク・スカイウォーカーやそ
の父親アナキン(ダースベイダー)などと比較されるべきなのでは
ないかとも思う。そして、ジョセフ・キャンベルの神話学をベース
にして作られた『スターウォーズ』との比較が相応に成り立つとす
れば、『半沢直樹』は物語の王道を行く、かなり普遍的なストーリー
構造を持っているということにもなるだろう。このドラマが海外で
も人気があるというのも、その辺りのことを考えると、宜(むべ)
なるかな、である。

あともう一つ、半沢直樹は銀行組織の中で問題児だと見なされてい
ることも重要だろう。彼は理不尽なことがあれば、組織の慣例に従
うこと無く、それを糾弾するし、相手の不正が明るみに出れば、そ
れが上司であっても呼び捨てにする。金融庁検査でもその態度が問
題視されて、処分を検討されることにもなる。
『歌舞伎の歴史』には「正しい道筋から外れた行動をする」ものが
カブキ者と呼ばれたという説明がある。さらに「世間の秩序に反し、
伝統や権威や常識などに反発して、自己を強く主張して生きてゆく。
そのような生き方をする自己顕示欲の強い人々をカブキ者と呼んで
いた。」ともある。
とすると、このドラマにおける半沢直樹の立場はまったくカブキ者
のそれと変わらない。カブキ者の有り様は、その全時代の婆娑羅と
繋がっているわけで、そこには、楠木正成や佐々木導誉や前田利益
やらの日本人好みの自由狼藉なキャラクターが連綿としているわけ
で、半沢直樹はそういうカブキの系譜に連なったキャラクターなの
だ。水戸のご隠居は贔屓目にみても翁的であって、カブキ者的なん
かでは絶対にない。『半沢直樹』は『水戸黄門』ではないのだ。

というわけで、テレビドラマとしては久々の大ヒットになったとい
う『半沢直樹』はヤツシ事を現代社会を舞台に復活させたテレビ版
の歌舞伎であり(そういう感じを実は歌舞伎俳優でもあるところの
市川中車と片岡愛之助が増幅しているしてたりもするということを
付け足しておく)、デビルマンや仮面ライダーやダースベイダーの
苦悩や葛藤などのキャラクター要素や物語全体の構造を共有する現
代の神話なのである、というのがぼくの分析であり言い分である。
カンゼンチョーアクだしミトコーモンに似てるのよねぇ、とかいう
のは水戸のご隠居のお気楽極楽ピクニック的世直し旅同様の、お気
楽極楽印象批評でしかない。

こんな単純な分析のために長々と書いてきたわけだが、実を言うと
このドラマを分析するともっと面白いことがいろいろ出てきそうで、
どうしたものかと思っている。例えば、半沢直樹とその妻の上戸彩
扮する花との関係のこの物語における神話学的意味を考えてみると
面白そうだとか、銀行という現代の経済状況や会社組織を象徴する
設定の中で流通している言葉や例えば半沢の決め台詞である「倍返
しだ!」という台詞がどんな風に神話的な言葉と関連、しているの
かを考えるのも興味深いとか、上にもちょっとだけ書いたけど、半
沢とその親友二人は三人とも「ヤツシ」なのだけど、この三人のヤ
ツシがどのように異なっているのかとか、もしかしたらこの三人の
関係は『三国志』劉備、関羽、張飛と比べてみるべきなのかもしれ
ないとかいう辺りを深めてみるのも一興だなとか、さらには同じく
堺雅人が主人公の古見門剣介を演じている『リーガルハイ』と『半
沢直樹』にはどうやら陰と陽のような一対の関係があって、その陰
陽関係を考察したり、その一対でもって現代日本の社会のどういう
ところが揶揄され、批判されているのかを眺めてみるのも大有りだ
けど、また長くなるだろうから面倒だなとか、そういういろいろが
あるのである。

でもまあ、こんなことをやっているといつまでも久しぶりの投稿が
アップ出来ないままになってしまうので、このあたりで一段落つけ
ることにする。ではではいずれまた。