滝のような。

長期滞在者

ヨーロッパの8月は学生だけでなく社会全体が夏休み気分である。
そういう気分に乗っかってのんびりしたかったのだけど、なかなかそうは問屋が卸さない。
やり残していた確定申告だとか、失業保険のための再登録手続きだとか、
飼っていたモルモット(羽左衛門)が急死したのでその葬式だとか、
人生初の運転免許講習だとか、水墨画の特訓だとか、相変わらずの作陶活動だとか、
今年一番忙しい月だったんじゃないだろうかと思う。

そして今日から9月である。
西洋社会では新年度の始まりである。ということはつまり、通っている芸術アカデミーも再開されるのである。
ついに3年目である。この飽き性のおれがよくもまあこれだけ(といってもたった2年だが)続けているものだと思う。
今年度は、アカデミーではあれこれと実験めいたことをやってみようと画策中。
おおまかにいって、粘土の処理と釉薬の調合と焼成の仕方で仕上がりがかなり変わってくるので、その組み合わせをリサーチしまくろうかと思っている。そしてその組み合わせは無限にあるわけで、非常に遊びがいがある。
実はそのアカデミーで、今年から版画のコースもとることにしている。
版画でちょっとやってみたいことがあるからなのだけど、なにか面白いものが出来たらここでもお披露目したいと思う。

話は全然変わるのだけど、故あってここのところ久しぶりに「意識」についていろいろ考えている。
3年前に舞台作品を作った時のテーマの一つが意識だったのだけど、当時座右の書として読み倒したのが井筒俊彦の『意識の形而上学』だった。それとからめて唯識論についても自分なりのリサーチをやってみて、意識の構造とか出所とかのメドを付けてみたのだけど、今になってさらに考え続けてみると、ギブソンのアフォーダンス理論と、パースのアブダクションの二つを仏教思想に並べて考えてみるともっと面白くなるだろうということが見えてきた。
で、記号学をちょいと癖のある方向からさかのぼってみようと思い、『アルス・コンビナトリア』という本を読んでいると、ノヴァーリスが意識について考察していた内容が、アフォーダンス理論を通してぼくが意識について何となく考えていたこととかなり似ていたらしいことに気がついて、驚嘆。(そういえばこのことに関連してカメラオブスキュラについても掘り下げようと思いついたのを危うく忘れるところだった。こうやって文章にするのは重要である。滅多にやらないんだけど。)それからその本に出てくるライプニッツのことを読んでいるときに、ふと「三浦梅園の玄語図って、実は普遍言語のモデルであって、さらに意識そのもののモデルにもなっているのかもしれん」と思ってしまい、自分が手に負えそうにないことを思いついた時の常で、天才バカボンの主題歌を歌ってそこから撤退した。その後、気を取り直して、「そろそろちゃんとノヴァーリスに取り組まなければならないなあ、今度日本に帰ったときに古本屋でめぼしい本をゲットして、それからゆっくり考え直そう」ということにして、やっぱりそこからは一旦撤退することにしたのだった、ということがあったりもした。
まあなんというか、大雑把に言えば意識というのは内と外の間で発生する磁力のようなもんなんじゃないかと、陶芸をやったり版画をやろうとしているのもそれに関わっているののだと、そういうことなんだけど、これでは伝わらないだろうなあ。というか、さらに分かりにくいかもしれないなあ。残念ながら。もしも文学的才能があったら、きちんと説明できるんだろうけどなあ。ないなあ。残念ながら。

そういえば、今日はベルギーにある唯一の滝を見物してきたのだった。
滝を見た途端に、ずっと前に一時期麻薬付けになっていた友人が言ってたことを思い出した。
「今日医者に見てもらったら、「普通の人の場合、ドーパミンってのはある特定の状況で脳内に少しずつ滲み出る感じで分泌されてるんだけど、きみの場合はそれが滝のように継続してだだ漏れになってる」って言われちゃったんだよね〜」
やつは元気にやってるだろうか。