この回で『それをエンジェルと呼んだ、彼女たち』は最終回を迎える。この連載では人と出会った記憶を起点に、彼女・彼らを思い出すようにして書いてきた。それは思いを重ねることだった。自分はその人の何を書いているんだろう、という問いは重ねるほどに膨らんでいった。
胸を痛めたり、熱くしたり、透き通らせるような出会いを思い出すとき、特別に思えたその瞬間を一言一句記録する代わりに色として書き写した。ちょうど旅先で忘れたくない景色を慌てて自分の手持ちの色でスケッチするように。記憶は頼りないのに鮮やかで、私はその色彩を頼りに書いてきた節がある。限りある色数で塗られた記憶から言葉をつないできたのだと思う。色彩は揺れる感情の波動で色を変えていく。
書くほどに人にはいろんな面があるということを考えた。本当のところは「面」と言い切れない、液体のようなゆるやかさでひとりの人間がいろんな感情を抱き、考え、振る舞う。その一瞬の姿を書くことがその人を限定するのではなく、知り切ることなどできないという安堵として心に広がればいい。今私がいる場所から、彼・彼女たちのことを大切に思う。
バラバラに揺れていたはずの振り子がぴたりと重なるような素晴らしい瞬間は、それが続いていくことを約束してはくれない。素晴らしい出会い方をした人たちと何度か会うなかで、自分自身に対してやきもきすることがよくある。会いたい人に会えないとき、会えてもかつてと同じような時間が過ごせないとき、私たちがたまたま共有した時間が本当にいろんなものが絡み合い溶け合ってできているのだと思い知る。
理想的な瞬間が度重なれば素敵だけど、それは無茶な願い事なのかもしれない(そして、実際に起こる素晴らしいことは思いもしないことだったりする)。また重なってほしいと呟きながら日常の複雑さに自分を溶かしていく。出会った人たちとは細い細い糸でつながるけれど、2本しかない手でずっと握っているわけにもいかず、千切れないように手放すこともあるかもしれない。
一度は委ねてみる、ということ。
彼・彼女について告白にならないように書くのは難しかった。言わないことを多分に残すために注意深くならなければいけなかった。それなのに、色彩は隠しようがなかった。体から口から持て余すほど溢れ出て、夏の草むらみたいに生い茂りどんどん色濃くなっていくのを、もうどうしようもなかった。
言葉になった記憶も、はじまりはただの愛だった。隣の敷地まで茂らせてしまいそうな愛だった。全部を伝えたくなるような、または全部を教えてとうっかり言ってしまいそうになるような野蛮さをはらんでいた。言葉で書くことが寸前のところでそれを思いとどまらせた。
その人越しに見たもの感じたものを包み込むように、誰の足跡もついていない雪原がその人を覆っているということを繰り返し思い浮かべる。その遠さを尊ぶことが今、私が記憶から学びたい愛だった。