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ぱっと見の明るさや楽しさも。

それをエンジェルと呼んだ、彼女たち。

無地よりも柄ものが好きで、その結果、合わせにくい服ばかりがタンスに増えてしまう。ベーシックな無地の洋服は万能。ファッション雑誌には着回し、3 way、スタンダードという言葉が踊る。そういう服はあらゆる場面にも着ていけるだろう。でもあらゆる場面っていつのことで、何回くらいあって、どれくらい心踊るだろう? 好みの柄は目にした瞬間から私を喜ばせてくれる貴重な存在だ。そして、複数の色づかいが幸せを感じさせてくれる。

「私は色が好きだった。たとえ多くの写真家が軽んじたり、表層的だとか思ったりしても」(原文:I liked color even though many photographers looked down on color or felt it was superficial or shallow.)(※展示室に掲載された文章より)という言葉を残しているのは現在渋谷の文化村で展覧会が開催中の写真家ソール・ライターだ。展覧会でこの言葉に出会ったときには、「私も色が好き!」と嬉しくなった。その時に初めて意識したのだけど、私はカラフルな色や柄を愛している一方で、そのお祭りめいた自分の好みにどこか劣等感を抱いていたのかもしれない。「個性が強いために扱いにくく」「他と調和しにくい」イメージのために。それでもそういうものばかりを選びとってしまう自分に。そう、欠点のように感じることさえあったことを認めよう。

人を楽しませるものというのは、ときに無意味だ。目的や結果とは無関係な素振りでただ存在していたりする。鮮やかに滲む草花の色彩も、異国情緒あふれる楽園のモチーフも、官能的なネオンカラーも、なかったとして私の心臓は止まらない。ベーシックやスタンダードと言われるもののように「役に立つ」こともあまり期待できない。

それなのに、私はそういったものが持つ朗らかさに生かされていると本気で思う。なんでもない日にこそ必要で、ついていない日だったら目にするだけ・纏うだけで気持ちが良くなる。

とびきりの楽しさは周りからは少しだけ浮いているように見えるだろう。明るさの周りには影が落ちるものだから。そこにはあって然るべき乾いた悲しさが存在している気がする。生クリームを立てるときの最適な砂糖の分量は8%と言われているけれど、おそらく同じくらいの分量で。

色や柄が好きだというときについ、言い訳しそうになるのを止めること。こんな派手なのいつ着るんだって感じだよね、とか、まるで民族衣装だよね、とか。例えそういう風に見えたとしても、楽しい色や柄が好きだ。他人やよそ行きの用事のために役に立たなくても良い。太陽や草花に思いを募らせるように描かれるカラフルな北欧のテキスタイルさながら、自分に必要なものを身につければ良いのだ。

松渕さいこ

松渕さいこ

interiors 店主 / 編集・企画 東京在住
お年玉で水色のテーブルを買うような幼少期を過ごし、そのまま大人になりました。2019年よりヴィンテージを扱うショップの店主。アパートメントでは旅や出会った人たちとの記憶を起点に思考し、記します。「インテリア(内面)」が永遠のテーマ。

Reviewed by
ぬかづき

当たり前だけれど、服はそれ単体で完成するのではなく、着る人が着て、はじめてあるべきかたちにマッチする。わたしは以前、柄にあこがれていた時期があって、ペイズリーのシャツやらストライプのジャケットやらチェックのパンツやらを持っていた。それらは商品や持ち物として店頭やタンスに置かれている分にはとてもすてきに見えるのに、服として私が着たとたん、なんだかちぐはぐな感じがしてしまうのだった。単に着こなせていないだけなのかもしれないけれど、いや、それらを上手に着こなしていたとしても、自分が自分でないような、周りの空間からどことなく浮き出てしまっているような気がするように思ったのだった。結局それらの柄物はあまり着られることなく、年月は過ぎ去った。

そうして長い日々が過ぎ、さいこさんの文章を読んで、柄物の「朗らかさ」がわたしの気持ちとマッチしていないのかもしれない! と気づいた。うれしさに跳ね回る犬を持て余してなんだか気まずくなるような、そんな感じがするのだ。わたしにとって、身にまとう服は、もっと静かでおとなしくしていてほしいものだった。

跳ね回る柄模様の犬に元気づけられて自分も踊りだすことができるような明るさがあればいいなと思うけれど、今の自分は、自分がそういう性格でないことも知ってしまっている。柄物の服を着こなす人には、今でもあこがれを感じる。

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