雑司が谷みちくさ市の拾い物の数々を
うさぎのぬいぐるみバッグに詰め込んで
隠し持ってる私は、かなりハイな気分で
ロケットカフェに道草したのです。
立ち寄ったお店が素敵で楽しかったりすると
tina*tinaのショップカードをさし出します。
これは、ヘンゼルとグレーテルが
森の中にちぎって落としていった
道しるべのパンくずみたいな感じ。
遠く離れた街で撒く紙片は
小鳥に喰べられたパンくずみたいに
あとかたもない。
その益もないことが私のひそかな愉しみなのです。
ところが、この日はどうしたことか勝手が違いました。
影絵のようにそこに居合わせた人たちに手渡したそれが
たちまち私の自己紹介の名刺みたいな格好です。
すっきり美しい印象の若いおふたりが
コラムを書かないかと、すらりと言うので、
私は自分の顔に何かよからぬ思惑の字が
づらづら書いてあったか、と仰天しました。
実は北欧ログのおうちをそのままカフェにしたtina*tinaは
そこだけが別の世界で、小高い丘の上に
ぽつねんとある舞台のようなのです。
そうすると雑貨部屋をひとまわりするお客の人たちとのやりとりは
お茶をいれる幕間の劇中劇のようなものだ、とも
思えてきます。
そんなおかしなことを考えているので
私は部屋の隅に仕込む小道具集めに余念がなく
お店と家と街との間を脈絡なくふらふらしていて
いったい何がしたいのか、誰にもよくわかりません。
かつて1日も開店できない自閉的な店を
開店休業し続けた私です。
ちょっとホンキを出すと
値段もつけずに並べた御託が
寄れば触ればどっと人めがけて倒れ込んできて
たちまち悲喜劇が展開されます。
私はホントに雑貨屋をやってるのか?と
自分にツッコんだところで全然笑えません。
しかし、そうした数々の即興劇も
無駄ではなかったのでしょう。
私は徐々に気づくのです。
モノたちはいつも出合うべき誰かを待っていることに。
だから、窓の外の季節のうつろいにまかせ
それぞれの物語は自然のように配置して
忘れてしまってるくらいの方がいいのです。
そっと隠れていたエピソードが
モノと人を結びつけることがあります。
あの日朝弘佳央理さんとマスナリジュンさんに出合い、
この場所に私がまいた言葉が
はたして誰かにとどくのか、何かにつながっていくのか、
見当もつきません。
ルイボスティとロケットカフェのtinaちゃんたち