木を見て森を見ず、という言葉がある。
森を見て木を見ず、ということも言えるだろう。
以前、ある若いダンサーにこんな事を話した。
多くのダンサーは、自分の(要素や機能や人生の)一部として「ダンス」を考えているように思う。
それはそれで全く普通の事だが、でも、こんな考え方も出来るんじゃないだろうか。
「ダンス」というものの一部として、自分がダンサーとして含まれている、と。
「ダンス」のイデア的集合のようなものがあって、「ダンス」が「ダンス」であるための
不可欠の要素として、それぞれのダンサーも「ダンス」に含まれている、と。
「私」の自己実現のためにダンスがあるのと同時に、
「ダンス」が自己顕現して来るために、世の中で踊っている一人一人を必要としている、と。
「私」がダンスを選んだのと同時に、
「ダンス」がきみを選んだという事もあるんじゃないか、と。
世の中のどんな些細なものでさえ、
この宇宙を構成する要素であって、
それがなければ、この宇宙はこの宇宙でなくなる。
つまりどんな些細なものも宇宙が宇宙であるために必要とされている。
その中に「私」も含まれている、と考えるだけで、
自分の置き所のフレキシビリティが拡張される。
ダンスをたったひとりの自分の中のほんの一部と考えるのと同時に、
宇宙のように広い「ダンス」に包摂されていると想ってみる。
「ダンス」と「私」がお互いに含まれ合うような関係を想定する事で、
「ダンサー」の立ち位置も柔軟性を増す。
というか、そのように考えられたら、古典、モダン、コンテンポラリー、その他諸々の
カテゴリーに左右される事なく、自分とダンスの関係の自由度を増す事ができる、
とぼくは思う。ということを。
2011年3月11日、東日本大震災。
あれから1年7ヶ月が経ったが、
日本政府も、マスコミも、
このすこぶる巨大でなおかつ繊細な被害の数々を
いよいよ暴力的に一般化している。
「被災地」とはどこのことなのか。
「被災者」とはだれのことなのか。
権力による一般化の暴力に抗するに、
たくさんの意見やデータや行動が立ち上がっているが、
最も有効なのは、
ちいさくとも血の通っている物語をいくつも紡ぎ合わせる事
ではないだろうか。
データでしかない情報に命は乗せられない。
命を乗せる情報としての物語を。
旅立ち、試練、帰還をらせんに繰り返す
遺伝子のような物語を。