動物園の鳥類は風切羽を切って飛べなくしてあるんだ、などと聞くと、僕も一応動物好きのハシクレであるからして(枕頭の愛読書は今泉忠明『世界珍獣図鑑』)やはり胸が痛むわけだが、だからといって僕は動物園の動物は不幸だから、なんていう言い方には全面的には賛同しない。
動物を見世物にしてストレスの多い環境で飼い殺している、とナジる人がいる。
しかし野生地で生息域を狭められ数を減らしてしまった種類を、保護して飼育し人工繁殖しデータを収集してできるならば野生復帰も試みる、そういう活動を担うのも動物園である。
野生の生息地には遠く及ばない劣悪な環境であったとしても、我々が間近にその動物を観察でき、生態の不思議に、種の多様さに驚き、生命の、自然の不思議に思いをめぐらせる、そういうことを考えられる場所がほかにどこにあるだろう? かわいそうだから動物園などなくして動物を解放せよという。そういう人は動物園をなくしたあと、野生地にまで足を運んでその種たちをずっと気にかけるというのだろうか。
動物園に行くたびに、いろんなことを考えて、良いとか悪いとか、何も判断を下せず様々な思いに引っ張られるのだが、動物園のフンボルトペンギンが、オオアリクイが、ツチブタが、ミツユビナマケモノが、マーラが、コツメカワウソが、キンカジューが、幸せか不幸せか、どの程度のストレスを噛み殺して生きているのか、こんなところに押し込められるくらいなら死んだほうがましなのか、それとも案外気楽にのんびり暮らしているのか・・・・と考えたところで、結局それは人間の言葉なのである。つい擬人化して考えてしまうけれど、彼らは人語の世界を生きてはいない。
わからないことはわからない。そんなことを考えて複雑な思いになりながらも、やっぱり僕は動物園は必要だと思う。良い悪いの話ではない。好き嫌いの話でもない。複雑な感情を、複雑なまま抱えて動物を見に行くというのでいいのだと思っている。
さて、ハウラである。
もう二十年くらい前の話だけれど、ハウラは王子動物園のふれあい広場に放し飼いされていたモモイロペリカンのメスで(もちろん風切羽は切られていただろう)、いつもおとなしく広場のすみで羽をたたんで佇んでいた。
とある日の夕方、ハウラの前でぼんやり僕が座っていると、いつもはおとなしいハウラが、すくっと決然と(擬人化)立ち上がったかと思うと、なんだか遠い目をして(擬人化)、切なげに(擬人化)首を持ち上げ、バッサバッサと風切羽のない翼を羽ばたかせはじめたのだ。大きく、そして次第に速く。
天を仰ぎ、ハウラはいつまでもしつこく羽ばたくのをやめない。懲りずに擬人化するならば、空を恋うて感傷的になっているのか、とも思えるし、我が身の不自由さを呪ってのある種の抗議行動のようなものにも見えた。
僕は広角レンズをつけたカメラを持ってハウラのすぐそばにたまたまいたので、カメラを向けてシャッターを押しさえすれば、この大きなペリカンが豪快に羽ばたく姿を写真にすることができる。
ハウラはいつまでも羽ばたくのをやめない。羽を広げたペリカンは雄大で、白い羽毛が夕日に照り映えて輝く。ファインダーの中の文句のない絵柄を見ながら、それでも僕はシャッターを押せずにいた。なぜか。
このままシャッターボタンを押せば、このハウラは「切なく」写ってしまう、と思ったからだ。僕がシャッターボタンを押すことで、ハウラに「風切羽を切られた可哀想な動物園の鳥」という、ある種の烙印を押すことにもなる。
写真は「あるものを写す」だけではない。写すことによってそれが「あるものになる」こともある。
シャッターボタンを押さないまま、ファインダー越しにハウラをずっと見ていた。切ないのか? 我が身の不自由を呪っているのか? それとも、全然そんなの関係ないのか? 僕が勝手に感情移入してるだけなのか? どうなのハウラ。このシャッターボタン押してもいいかな。そもそも、どうして僕は今ハウラを撮りたいと思っているんだろうか。ハウラが「切なく」見えるからか? でもそんなのはただの擬人化だ。擬人化が嘘くさいとわかっていて、それでも撮りたい理由は何か?
美しいから、ではないのだろうか?
あらゆる理屈をはねのけて、美しいから、という理由が勝ち残ることもあるのではないか。
だったら美しいって何なんだ、という問いとももちろん対決しなければならないのだが、とにかく、僕は美しいと思ったのだ、という直球な理由でシャッターボタンを押してもいいのではないか。
今ならば、無論、即座に撮る。経験が撮れと命じる。むしろ、自分の矮小な美意識のようなものに絡め取られる前に、そこから逃げるスピードで撮らなければならない、と考える。
しかし当時写真を始めたばかりだった。初心者の生真面目さがあった。このまま撮ったら「可哀想な鳥」を捏造することになってしまう、という直感があり、撮ることを躊躇していた。
結局は撮った。
心配したほどハウラは「可哀想」には写っておらず、結局「擬人化」という言葉による捏造を、案外写真というものはするりと避ける術を知っているのだな、と、さんざん考えて撮っただけに、多少拍子抜けでもあり、妙に感心もした。
このハウラの写真には、シャッターボタンに指をかけながら長らく逡巡した僕の混乱や自問自答や決断や・・・・そんなものをすっ飛ばして、言葉が入ってくる前に感じていたであろう信号(突然大きな鳥が羽ばたきはじめた驚きと、それを美しいと感じた光や形)を素直に写し込んでいるように思える。
良くも悪くも写真は表面しか映らない。僕はハウラの「表面」から、さまざまな信号を受け取った。それはわざわざ擬人化して人語に翻訳しなければならない種類のものではない。翻訳せずに、そのままをスキャンするように、とりあえず取り込む、という芸当ができるのが、写真というものだ。
写真は言葉に沿わない。写真は写真として、言葉の解決できない問題を、解決しないままにそのまま取り込む。
答えを出すのが写真の役割ではない。問いを問いのまま提示すること。問いを受け渡していくことが写真の持つ役割の一つなんだと思い至る。
プリントしてみて、ハウラの長い首の、白さと陰影の階調がすごくいいと思った。