モノクロームの写真はカラーの写真よりもノスタルジックであるという勘違いがまかり通っているけれど、僕の経験上、特定の時間や特定の場所の記憶は「色」にまとわりつくことが多いのではないかと思う。「モノクロ=ノスタルジック」というのは、古い時代の感光材料であるということからの短絡でしかない。モノクロームはすでに色を省くという抽象化が一度なされているために、特定の時間・場所のくびきからは離れやすいのだ。
前にリー・フリードランダーが自分の家族を撮ったモノクロームの写真集を見て思ったのだが、若い頃から同じ写真機と感材を使っていると、若いフリードランダーと現在の年老いたフリードランダー、若いころのフリードランダーそっくりなフリードランダーの息子、と写真が並んでも、まったく時系列というものが感じられない。
僕らは時間というのは一直線上に等速に過ぎていくものだと思い込んでいるけれど、過ぎた過去は一概に一方向に去っていくとは言えないのじゃないか。去った途端にベクトルではなくなり、ばらばらに拡散して好き勝手に沈殿していく。過去は過去になった途端「どれくらい過去か」はさしたる問題でなくなる。
時間的な記憶は色にまとわりつきやすいので、色のない写真にしてしまうと特に、過去は時系列が霧散するのだということが実感される。
時と場所の記憶を失ったモノクロームの写真は、いつでもなくどこでもない、特定の引力に束縛されないある種の抽象性と普遍性を得る。それはノスタルジアとは何の関係もなく、むしろそこから一番遠いところにあるものだ。
カラーの写真はその時その場所の記憶をどうしてもぬぐえない。その時間と空間の記憶が宿る(気がする)。これは僕だけの感じ方なんだろうか?
その時期その時期の記憶を刻みたい場合、どうしても写真に色がついているべきだと思える。時間と繋がるための写真には色が必要だ。フレームで切り取るというだけである種の抽象化は免れないにしても、それでも抽象による濾過を最小限にとどめたい、特定の場所・時間の温度や生々しさのようなものを劣化させたくない場合にはやはり色を省けない。
しかしもちろんそれは両刃の剣でもあるわけで、抽象化という鎧を着ずにいるぶんだけ、時間の経過にその写真がどれだけ耐えられるのかわからない。展示の時点で、それはもちろんその時の一番の緊張度だと思っているものを提示するわけだけれど、年数を経たあとで自分の中で経年劣化を感じてしまうのは色のある写真に多いのだ。
ただ、これを欠点とするかどうか、という話なのだけれども。
劣化をよしとせず、抽象の鎧を着せるのか? 経年劣化は承知の上で「現在」を撮るのか?
で、僕のような半端者は結局両方捨てきれずに、展示のたびにカラーとモノクロを交互に行き来することになってるわけなのです。
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というわけで、今回はモノクロームの写真の展示をします。
カマウチヒデキ写真展#3『Book of Monochrome』
3月18日(月)ー31日(日)[金曜休廊]
13:00-19:30 [月曜のみ13:00-17:00 / 最終日は16:00まで]
birdie photo gallery
〒650-0022 神戸市中央区元町通1丁目11-7 千成堂ビル4F
Tel / 090-3654-2304
http://motomachi-birdie.net/index.html
ノスタルジアから一番遠い写真、をお見せできるでしょうか?
開催時期に神戸界隈へお出かけの方、ぜひぜひよろしくお願いいたします。