何の前触れもなく僕らの街を襲った大地震。
彼女の住むあたりはかなり震源地に近かったと思う。はたして無事なのだろうか?
僕は一縷の希望を抱いていつもより早く学校へむかった。
登校している生徒はまばらだった。それもそのはずた。
こんな日に登校すべきなのかどうか誰もわからない。
それくらいのショックと不安があったし、もちろん被災した生徒もいたと思う。
そもそも学校自体がまだどうすべきかという体制を整えられていなかった。
僕はすぐに彼女のクラスに向かった。
だが、そこに彼女はいなかった。
僕は共通の友人を頼りに彼女の安否を確認しようとしたけれど、
どうやら登校していないことがわかった。
電話の回線は不通で、彼女はおろか誰とも連絡がとれない状況だった。
午前のうちに学校から帰宅指示がでたが、僕は彼女が登校するかもしれないと思い、
その友人たちと一緒に日が暮れるまで待っていた。
それでも、震災があったその日、
僕は結局彼女が無事かどうかを知ることができなかった。
これは、後日わかったことなのだけど、彼女は無事だった。
しばらく自宅待機のまま登校していなかったのだ。
でも、僕がそれを知ったのはずいぶん後のことだった。
やがて、高校最後の春がはじまろうとしていた。
あの日、あれだけ彼女を思ったことで、
僕はぼんやりと自分がどうしたいのかについて思いを巡らせていた。
このまま僕らはもう会うことなく、それぞれの人生を歩んでいくのだろうか?
素直に謝れなかったことも、大好きだったことも、
この先ずっと自分の胸の奥にしまったままにしておけるだろうか?
震災後の混乱のさなか、なんとか無事に大学受験を終えた僕は、いよいよ卒業式の日を迎えた。
放送部でのあの事件からこの日までずっと、彼女とは接点を持てないままだった。
あの頃、携帯電話やメールがあれば、僕と彼女の関係はもっと違うものになっていたかも知れない。
ただ、二人が親密だった頃は、そういうものがないからこそ、いい距離感を保っていられたのだと思う。
でも結局、僕らは最後にはずいぶん遠くまで離れてしまった。
この春休みが終わったら、僕たちはみんな島を出てそれぞれの大学に進学する。
僕は、バラバラになる前の時間を惜しむかのようにして親友たちと一緒に家に集まった。
そして、高校最後の思い出に、それぞれ順番に好きだった女の子に電話をしていくことになった。
謝りたい気持ちや、好きという気持ちを抱えたままのくせに、僕にはそれを伝える勇気がなかった。
嫌がる僕をよそに、親友のひとりが勝手に彼女の家に電話をかけはじめた。
でも僕は、心のどこかでそうやって誰かに背中を押してもらうのを待っていたのかも知れない。
止めようと思えばできたはずなのに、僕にはやっぱりできなかった。
電話が通じたあと、彼女となんの話をしたかはもう思い出せない。とにかくすぐに会いに行くことになったのだ。
海沿いの国道をバスに揺られて僕は彼女の元へと向かった。海の向こうには神戸や大阪の街が霞んで見えた。
あそこから見える景色は一体どんな風だろう。この春休みが終わったら、僕は、18年間住み続けたこの島を出る。
バスが到着すると、停留所まで彼女が迎えに来てくれていた。
僕はいくぶんバスに酔ってしまっていたうえに、
しばらくぶりに彼女と二人きりになった緊張で不思議な気分になった。
あのときの僕はどんな顔をしていただろう?
僕らはバスの停留所から山の手まで、彼女の家へとゆっくりと一緒に歩いた。
彼女にしてみれてば、僕の登場は「?」で「!」でしかなかったと思う。
でも、僕は、近くもなく遠くもない距離で一緒に歩くその感覚が懐かしくてなんだか嬉しかった。
それと同時に、いつ気持ちを伝えようか、するべきではないのか、自問自答を繰り返していた。
僕の胸は今にも張り裂けそうだった。
この1年半の間、彼女は僕に対してどんなことを思っていたんだろう。
一緒にビートルズを演奏したことはもう忘れてしまっていただろうか?
僕はといえば、いつも遠目に彼女を眺めているだけだった。
そういえば僕は、彼女がどんな家に生まれて、
どんなところに住んでいるのかほとんどといっていいほど知らなかった。
高校年のときに僕とはじめて出会うまで、彼女はどんなふうに暮らしてきたのだろう。
どんな学校に通って、どんな友達がいて、どんな初恋をしたんだろう。
好きという気持ちはあっても、僕はあの子についてなにひとつ知らなかったのかもしれない。
そんなこを考えながら僕は彼女ととりとめのない会話をした。
でも、やっぱり今はもう何を話したかは覚えていない。
彼女との会話のあと、僕はまた停留所まで見送ってもらった。
僕はまだ何も想いを伝えられていなかった。
バスを待つまでのなんでもない時間がとても長く感じられた。
もうバスが来るだろう。僕は思いきって彼女に言うことにした。
でも喉がカラカラに渇いてうまく声がだせなかった。
自分の声がまるで他人のそれのように感じられた。
喉に何かが詰まったような低い声で、僕はこう言った。
「ずっと好きでした。」
国道沿いのバス停。
トラックやバイクやいろんな車が、ごうごうとエンジン音をたてて、あっちにいったりこっちにいったりしている。
でも、僕が口を開いたその一瞬だけは、すべての音が消え、何もかもが聞こえなくなった。
まるで真夏の人ごみで溢れるプールに潜ったときのように、さっきまでいた世界がずうっと遠くに感じられた。
それは、ほんの一瞬のことだったと思う。なのに永遠につづくのかと思うくらい長い時間に感じられた。
そして、彼女はこう言った。
「なんで・・・なんで今ごろなの?」
彼女のその言葉と同時に一気にあらゆる音が戻ってきた。
相変わらず行き交う車たちがものすごいスピードで目の前を通り過ぎていく。
みんな一体どこに行くのだろう?
何か言うべきだったのに、どうしてなのか僕はぼんやりとそんなことを考えていた。
なぜ今ごろ?
彼女がほんとうにそう言ったのか、僕にははっきりわからなかった。
でも、僕にはやっぱりそう聞こえた。
僕は言葉に詰まった。
いろんな、ほんとうに、いろんな想いが一気にあふれてきて、僕は何も喋れなくなってしまった。
なんでだろう? なんで今頃なんだろう?
喉の奥が重い。
ああ、僕は泣きそうになっている。
僕はただ黙ってしまっていた。
自転車を二人乗りして、教室で机ひとつ挟んで千羽鶴を折ったり、一緒にビートルズを演奏したあの時。
あの時に、僕が気持ちを伝えておけば、僕らはなんとかなれたのだろうか?
今じゃダメなんだろうか?
ああ、バスが来てしまった。
乗り過ごすこともできたはずだった。
なのに僕は乗ってしまった。
僕は笑うでもなく泣くでもなく、どうすることもできない表情のまま、
彼女に「バイバイ」とだけ言った。
いや、もしかしたらその言葉さえ出ていなかったかもしれない。
ああ、このままもう彼女とは会えない気がする。
彼女の言葉の真意を聞けぬまま、僕はバスの座席にうずくまるようにして座った。
彼女は、僕と同じようにどうすることもできないような顔をして僕を見送っていた。
バスが出発し、窓の向こうに見えた彼女の姿もやがて消えてしまった。
海沿いの国道を走るバスに揺られ僕は、ぼんやりとその日起こったことを思い返した。
気がつけばあたりはもう真っ暗で、海の向こう側に街の光がキラキラと光っているのが見えた。
流れていく景色を見ていると、胸が苦しくなり、僕は大声で叫びたくなった。
なんで今頃なんだ。
そう自分に向かって叫びたかった。
いろんな感情が複雑にまざりあい疲れてしまった僕は、バスのなかでいつの間にか眠ってしまっていた。
次起きる頃には全部忘れているだろうか? 長い間、彼女を想っていた気持ちも忘れているだろうか?
その時に、僕のほんとうの意味の初恋は終わったのだと思う。
その後も、ある時まではずっと、
彼女の「なんで今ごろなの?」という言葉が胸の奥にひっかかったまま生きてきた。
彼女には、結局待たせたあげく、傷つけたままお別れしてしまったけれど、
それでもそれは仕方がなかったのかなと今は思っている。
多分、二人はそうなるように決まっていたのかな、とも思うし、
忘れてしまったことも、こうやってはっきりと覚えていることも全部含めて、
僕は、そして多分彼女も、ゆっくりと歳を重ねて生きている。
おかげで僕はまた愛する人と出会うことができたし、今は愛おしい子供たちだっている。
だから、僕は、高校生だったあの時の二人は、多分どこか別の遠い知らない、未来でも過去でもない世界で
やっぱり恋人ではないけれど、きっと親密な時間を過ごしているのだろう、そう自分勝手に思うようにしている。
さよなら、バイバイ!