長男が生まれる年の、ある夏の日の昼下がりのこと。
途轍もない音をたてて激しい夕立が降ったことがあった。
それは、家の屋根が落ちてしまうんじゃないかと思うほどの勢いで、
おまけにお腹にずっしりと響くような雷の音が遠くから聞こえてきた。
妻と僕は玄関の扉を開けて、ばちばちと音を立てて落ちてくる無数の雨粒をびっくりしながら眺めていた。
ずどーん!
大きな雷の音が遠くで鳴り響いた。
その瞬間、クーラーやステレオやいろんな電気機器の音がいっせいに消えた。
同時にクゥーン・・・ と残念そうにパソコンの電子音がフェードアウトしていった。
あ、停電!
しばらくすると、夕立が去って太陽が何事もなかったかのように顔を出してきた。
でも、停電は復旧される気配もなく続いていて、
大きな冷蔵庫はいつもの堂々とした勢いを失い、力なく沈黙を守り続けていた。
妻は仕方なくうちわを揺らし、あきらめたかのようにして畳で横たわっていた。
僕は思わずつっかけのまま外に出た。
空気が雨のおかげでかすかに澄んでいて、ひんやりしてるのが清々しくて気持ちよかった。
いつもならうるさい蝉たちもまだ様子をうかがっているようで、
あたりはまるで時間が止まったみたいにびっくりするぐらい静まり返っていた。
町内の人たちが軒並みぞろぞろと外に出てきては途方に暮れて、
「近いところに落ちたんちゃう?」とか「どないしようかな?」とか隣近所の人たちと立ち話をしていた。
僕もお隣のおばさんに会ったので同じような話をした。
それから僕は、町内をくるっとまわって様子を見て歩いた。
どうやらこのあたりはどこも停電しているようだった。
その時、住んでいた家は小さな山の上にあって、やたらと坂が多い町だった。
つっかけのまま出てきたことをちょっと後悔しながら僕は、
思いつきで山の一番上にある小学校まで行ってみようと長い坂を登った。
途中でいろんな人たちが何をするでもなく空を見上げたり、手持ちぶさたにしていた。
僕はすれ違った知らないおじいさんと落雷がどのあたりに起きたのかと、
二言、三言、言葉を交わしてからまた坂を登った。
息をきらしながら着いた小学校は、ペンキのはげた重そうな校門が閉まっていて、
大きな水たまりのできたグラウンドには人の気配はまったくなかった。
とりあえず高い場所に来たけれど特筆すべき出来事があるわけではなかった。
そんなことは最初から分かっていたけれど、そこから見た眺めは町のそれと同じで、
とても静かで気のせいかキラキラとして見えた。
停電がきっかけで知らない人と話をして、普段見かけないいろんな人たちとすれ違った。
止まった時間と不自然な静けさのなかで、その人たちと同じ空気を吸って同じものを見た。
偶然すとんと用意された空間のなかに妙な連帯感とも違和感ともとれる不思議な雰囲気が漂っていた。
おかげで僕はなんだか知らない場所に連れてこられたような錯覚に陥った。
それから、だんだんと蒸し蒸しした生ぬるい風が吹いてきて、
申し合わせたように蝉がいっせいにけたたましく鳴きはじめたので、ふっと我に返った。
気が付いたらいつもの夏の日で、さっきの雨と雷を降らした真っ白な積乱雲が、
遠くにもくもくと立ちのぼっているのが見えた。
どこかの家の窓からは雑音みたいなお昼のワイドショーの音が聞こえてきた。
さっきまでたくさんいたエプロン姿のおばちゃんやほとんど裸みたいな格好のおじいさんは、
見渡すとみんな外からいなくなっていた。
ああ、家に帰らなくちゃ。
僕は、駄菓子屋に寄り道してアイスキャンディーを2つ買って帰った。
妊娠八ヶ月目だった妻は、暑さと気怠さでぐったりとして畳に横たわっていた。
僕らはクーラーをつけ、どちらのアイスキャンディーにするかを選んで
「そっちにすると思ったわ」とか、一口食べては「冷たっ」とか言いながら、
結局分けあったりしながら食べた。
そこは、結婚して二人だけで住みはじめた家でもあり、長男が生まれ育った家でもあった。
そのあと、僕らは違う町の違う家に引っ越すことになった。
あの場所にはもう二度と行くことはないかもしれない。
僕たちのあとには誰が住むんだろうな。
いつか古くなりすぎて取り壊されるのかな。
裏庭の白い縁側や玄関横の大きな木はどうなるのかな。
毎年夏になると、あの雷が落ちた日のことを思い出す。
妻のお腹の中にいた長男にも聞こえていたかもしれない。
いつか長男が大きくなったらあの家で撮った写真でも見ながら、
このなんでもないお話をしようと思っている。
君はあの日のことを覚えているかい? と。