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2F/当番ノート

イラストレーション、その不幸について

当番ノート 第23期

わたしはイラストレーターという立場なのですが
50%くらいでインストラクターと間違われるかんじです。
だって、なにしてるかなんて知らないでしょう。
なんのインストラクターなんだろう。
もしかしたらインストラクターかもしれない。

ことば自体、洋語なので本質と理解がずれやすくて
煙に巻くのにはもってこいなのですが、当の本人たちも化かされやすく、
あにはからん、イラストレーションとファインアートの違いをひんぱん議題にするわりに
描画行為と「好き」の過度な神聖化、近視眼的なことをえんえんと巡っているものです。
結局「えをかくのがすき」的な禅的手法である「説明しません」を傘に着て本質を見えなくしやすいのですね。
イラストだけのことじゃないんだけど。
それで、イラストレーションは絵画から言葉と職業の棲みわけを行った以上、この洋語に説明の必要性が生じました。
それが明確にならなければ
あえて言い出した「イラストレーター」の立場がよくわからなくなってしまうためです。

Illustration(スペルで”1″が3つ重なるところが記号的で気に入っているのですが)
はもともとは説明するとか、図解するって意味で、
私は26ぐらいまでそんなこと思いもせずに過ごしました。
大学を卒業して、独立する!と決め込んで啖呵を切ったわりには結果を出せないまま時間が過ぎ、
そのうえ周囲を見渡さず、同業他者に興味を持たず、世の中に多くある仕事の持ち場、領分と立場を
まるで知らないでいたけど、言い訳するとこれは若い芸術家にはよくあることでもあるんですけどね。

アメリカのイラストレーションは”Illustrate”(図解、説明)する技量が優れていて、日々のニュースなどを素早い切り返しでオシャレで視覚的にしゅっと返してマジオシャレヤバいのですが、他のイラストでも瞬発性があります。
もちろん、作家的で手の込んだ絵を描く人もイラストレーターと呼ぶことがあるけど
日本でいうイラストレーションは圧倒的に「いい雰囲気の大きすぎない絵」といった意味で使うし、その割合の人が多いし
風刺や事象の図解を研ぎ澄ませて行う人はあんまりいません。
なので、イラストレーション、美術の中のその立場の独自性ってなんなんだよ、とボンヤリ思うのでしょう。
実際あいまいです。

なにも細分化してラベリングするのがよいとは思いませんが
絵画とイラストレーションの違いは完成形の問題だと私は考えています。

絵画が独立した平面の工芸品としての盛りや深み、美しさ、鑑賞性を求めるのに対して
イラストは印刷、web、舞台、なんでもですが成果物と判断基準は絵が貢献した2次的な事物であり
原画がなくてもよいし原画そのものの完成度はどうでもよい
ということが言えると思う。

わたしどもに蔓延している不確定さは、イラストレーターというひとつの「職業の名称」をイラストレーションという完成の「状態」と混同しているために生じたのではないかと思う。
イラストレーターの行為は、まるで「絵画を制作してはいけない、私の作品はあれもこれもイラストなのだ」といったような。
職能以外の行為をしないことが、その職業を盤石なものにするとは限らない。
それは自己暗示にすぎない。(芸術においては、自己にかける「呪い」としてそういう手法があるとしても。)

それと、ラスコーの壁画は、鳥獣戯画は、イラストレーションに含まれるのか、
といった問題については、たしかに素朴な線はイラストレーション的手法ではありますが
それは壁画と絵巻物です。
(なにかを論じる際に文脈によってイラストレーションと呼ぶこともできるが)
同じ図像が広告として使用されたり2次的な成果物となって現れるとき、イラストレーションになるでしょう。
イラストレーションとして使われるためです。
つまり、状態を表しています。
場所や目的によってそれが持つ性質の状態は変質します。
ロイ・リキテンシュタインは例ですがアート(としてのプロモーション)ですし
世界にヤギしかいなければ、紙はおやつ程度になりうる。

芸術はそもそもその人の生き方やライフワークに密着した、というよりそのものと同化しており
社会の中では相対的に職業になることもあれば、全く職業にならなくても勝手に機能し続けていくものでもあります。
自己の存在意義を「イラストレーター」だけに見ている人は辛いと思う。
社会の状況が変わったとして、仕事の受注にのみ自己の存在意義をみていたとしたらそれが死に直結するからです。
うんまあ、「稼げなくなったら俺は死ぬ」系の考えがある人も
生命を換金しながらでなくては生きていけなくなったのだと思う。
自分の能力を知って、よく活かすのにどのようにしたらよいか、を勝手に実行していれば
いいんじゃないかな
ここでいっているのは国家資格でもない勝手に始める仕事だからね

ところで、「あなたはなにをしたいのですか?作品づくり?」と聞き慣れたことについて
繰り返されることがあって、ようやく分かった気がした。
ややこしい事を言いますが

「何をしたいか?」という理念に対して「作品作り」は行為にすぎないため、
「理念を実現する行為は、1つ(単元)であるものだ」という前提に基づいているが、これは明らかに間違っている。
目的に対して行われることは状況や段階によってアプローチが異なるはずだから。
イエス、ノーで答えるならば「あなたは自分をどのようにプロモーションしたいのですか」のことであろう。
しかし、他人のプロモーションの方法や戦略を聞いて満足なのだろうか、
この質問の満足は内容ではなく、浪花節と語りの熱量だと思った。
「こうしてああして、ソーシャルグッドで世の中を変えて、みんなハッピーになります。それがアートの力!アタシ、信じてます!」
情的で素朴でバカで絵が描くのが好きで、それしか知らない子の
成功譚や夢物語が聞きたいってこと

これは消費者感情です。
言い換えると、「分かりやすく説明してくれ、感情で、浪花節として。」

もちろん、このように聞かれたら穏便に自分のプランを話すべきだが。

「何がしたいか」とは何かへの不満、どこかへの営業、または子どもに「これからどうする?」と聞くことであって
役目と承認欲求を得た後では
Gifted(恩寵、個人の優れたる部分)をどのように活かすか、「自分のすべきことは何か」でしかない。

たとえば、子どもをちゃんと育てること?
家族を養うこと?
生活すること?
生きること買うこと作ること?

私の行為は、信仰と呪術の咀嚼とイメージですが絵が得意なのでその形を取りやすいです。

元気で誠実に生きてほしい。

専門的だし、今日はひどく偉そうになった日ですね

唐木 みゆ

唐木 みゆ

アニミズムや宗教のことばっか考えてるイラストレーターの、日々のフォークロアなど、なにか。

Reviewed by
はらだ 有彩

《唐木みゆさん/イラストレーション、その不幸について》に寄せて


今回の唐木さんのコラムには問いがある。
「私たちはなぜ仕事を選ぶのだろう。」
この疑問は私たちに答えを迫らない。意図する正解に導きもしない。ただ疑問の存在をすうっと知らせ、回答がなければその様子をしんと見ている。

コラムの著者、唐木みゆさんはイラストレーターとして活躍されている。
イラストレーター、「イラストを描く人」です。イラストレーターはイラストを描く。イラストレーターだからです。
ピアニストはピアノを弾くし、フローリストは花を育てる。アーティストはアートを作る。パーカッショニストはパーカッションをする。

これはまったく明快で、共通の言語に基づいていて、清涼感のある分類だ。
私たちは社会に接して暮らしている。例えば、名刺を持っている。名刺は人に渡すためにある。
この長方形の紙に収まる文字数で自分の肩書きを説明することは、あるシーンではとても重要で、またあるシーンではほとんど意味がない。職業も社会も名刺もビジネスシーンも、文化の結晶でできているからだ。
アウトプットをするとき、役割はとても便利です。できれば曖昧で、懐が深く、解釈の幅のある役割がいい。役割という前提があることによってアウトプットは二次創作のように前提を持ち、受け入れられやすくなる。
一方、既存の枠組みを取り払いたいとき、それはとてもじゃまだ。「職能以外の行為をしないことが、その職業を盤石なものにするとは限らない。」と唐木さんは言う。

かの有名な「銀河鉄道の夜」にはジョバンニという名の少年が登場しますね。
彼は特別な切符を持ち、宗教や、職業や、生活や、しきたりを超えた《幻想第四次》へ行けるポテンシャルを持っている。
神の視座に立つことができ、あらゆる文化から解き放たれることができる。ジョバンニはどこまでも行くことができるが、カンパネルラは行くことができない。
彼は紛れもなく「既存の枠組みを取り払い、新たな原理原則を発見できる人物」だ。しかし幻想第四次へ至ってしまうと、まずいことが一つある。
ジョバンニは母親の牛乳を取りに行かなくてはならなかった。牛乳をもらうには、自分の名前を教え、今朝僕のところへ牛乳がこなかったんですと牛乳屋につたえなければならない。
そうでなくては牛乳屋はほんとうに彼に牛乳を渡すべきなのか判断できないだろう。牛乳をもらうためには「ジョバンニ」という名刺が必要だが、名刺は幻想第四次へ行くための特別な切符と同時にポケットへしまうことはできないのだ。

これはいやな風に思われるかもしれないのですが、役割をある種打算的に使い、社会的成功へのマイルストーンをミニマルにするということは、たまに必要ですね。
イラストの仕事は「絵がうまい人」より「イラストレーターと名乗っている人」に依頼したいし、虫歯が痛むなら「フローリスト」ではなく「デンティスト」に抜いてもらいたい。
存在しない餅屋で餅を買うことはできないし、ソムリエバッヂはすごく格好良い。

私たちは生きている。おそらくですが、死ぬまで生きています。その中々長い時間、便利な名刺を持ったり、どこへでも行ける切符を持ったり、大切な名前を持ったり、気ままに何もかもなくしたりして暮らしている。
ああ、この、なんとややこしいこと、不便極まりないこと、そして無限に自由なことよ!
すっかりこんがらがってしまって誰かに”Illustrate”してもらいたくなるけれど、Wacomのペン・タブレットは私の右手に握られているのだった。/終

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