やあ、もうすぐハロウィンをひかえたこんにち、コスプレが市民権を得るとともにハロウィン認知はすすんですっかりコスチューム・パーティー、もしくはイケナイ遊びの口実になりましたね。
私は、2000年代くらいのゲームオタクでコスプレイヤーだったので手作り衣装や造形物に気合いをいれてイベントに繰り出しておりました。
スクール・カーストでは不可触民でしたから外見にコンプレックスが大変多かったのですがいまや余裕で美人という記号のコスプレをして大人をやり通せる厚顔さはやしないました。(美人というカテゴリーは顔面よりも演技がものをいうのです。わたしは、小雪や藤原紀香も「美人」の演技だと思っていますからね)
これについて、あなたの開いた口がいくら塞がらなかったとしても、そうでもしないと息が吸えなかったものですから。
中高生のとき輝けなかった人はだれでも後遺症が根深いものですし
ふさぎがちな人ほど、演技や別のコスチュームを着て非日常を体感にブッ込むことは必要だと思います。
コスチューム・プレイは、特定のお気に入りキャラ(またはアイコン)の
「アトリビュート」
(持物、キャラクターがキャラクターになるための記号。孫悟空の場合は、猿であること、頭の輪っか、如意棒、筋斗雲、、などなどの記号によってキャラクターを特定できる)
を自己に投影することで、コミケなんかに行くとそのキャラとして扱われることになります。
「○○様!お写真よろしいでしょうか!」とか。
その経験を積んでいくと、服を脱いでもイコンの記憶、演技の経験値が残って、コスプレを知る前のあなたよりもはるかに自分に自信がついているはずです。
だって、演じたキャラクターは私どもの灰色の日常より卑屈なはずがないから。
(イコン:聖図像、魂の図的なあらわれ)
衣装の造形のイコンが、依代を着る積み重ねが、魂に付加されながらずっとマイナスだった自己評価がやがて地面と同じ高さになるときが来る。
社会で市民権を自覚した時、そこからはあまりコスプレに魅力を感じなくなるのかもしれません。
コスプレ需要の多くが10代後半~20代前半くらいの若い時のものであるように。
ビジュアルを盛りながら自己研究を重ねて写真に写ったあげく、鏡との対話の結果に外見のみにおいて、コンプレックスの彼岸に到達したのです。
では、そこからはコスプレしなくなったかというとそうではない、自分のコスプレの旅が始まります。
服を着ている時の方が魂の姿に近い。なりたい架空の自分や、プロデュース、見せたい演技がそこに貼り付いているのです。
これを極度にはずかしく思って普段着で全身黒を着る人がいますが、やめましょうね。もっともねじれが分かりやすい組み合わせですし、ねじれてなくてもイデオロギーみに圧迫感がありますからね。
こうして自分のアバター(魂の容れ物、体のこと。もとはヒンディー語)を認め、受け入れ、飲みくだし、自己のイコンを強化しながら集団のなかでのペルソナと自己の魂の重なるところをうまいこと運営していくのです。
おお、そのTPOよ、おしゃれよ、
自己プロデュースよ、
執着と美の斬り合いよ、
ところで現在、和服の購入層の多くが大人になったゴスやロリータあがりであることは書いておきたいと思う。
かれらは別世界にいる魂とアバターを今生で実現する者たちですがそのぶん、現実感からの乖離さがあるものの
大人になりゆく、うつし世を忍ぶ折衷案が伝統という強力な鎧の和服になったのでしょう。
彼らは鏡を見ることにおいては格段の場数がありますから、とっくの昔に外見コンプレックスの彼岸に到達して、和服にあがるときには数はかなり減るものの依然とゴシックに永住してコスプレを手放さない人もまた、多くいる。
ゴスの定住は基本的にミニマムな意味でのプロデュース(設定作り、白いサド侯爵、シャーマン海賊など)はあるけど現実の社会生活への戦略が主体ではない。(かしこそう、かわいい、もてそう、お金持ってそう、など)かれらは魂があまり現世に期待していないのではないかと思う。
私は、「川で洗濯もできないなんて、晩に火も見れずにすぐ絶やすなんて、大人ではない。」と考えるような土着のフィールドワークや生活哲学に影響を受けてきたし、どこにいたって古代ラブなので
山海のありさま、花鳥のあらわれ、昼夜のうつろいを愛でなければ生きていることにならない。ぐらい思っている
原始主義寄りなわけで、彼らの耽溺夢と袂を分かつた感がある。
しかしながら、暗い日常はちょっとしたことでいくらでも訪れて終わりがないかのように絶望させるのだ。
そんな時は、違うマスクを着けて他人になりたいし
お姫様になったらロマンスに溺れる方を確実に選ぶ。
ハロウィンの日は、闇がもっとも深いゆえに死者の門が開く
日常が暗ければ暗いほど、他者と服を交換してみようね
参考:「モードの迷宮」鷲田 清一
web:東京リチュアル(ポッドキャスト)