Reviewed by
ふき
mitoさんの写真や文章に触れると、記憶の抽斗に無造作に押し込まれたかけらが転がり出てくる。
小学校低学年の頃だったろうか。桜が美しい季節、ダムの湖畔にある大きな公園まで友達とてくてくピクニックにいった。私達がお弁当を広げたのは少し奥まったところにあるアスレチック広場だった。アスレチックと言っても、使われなくなった木の電柱やトラックの大タイヤを組み合わせて作られた簡単なものだ。ひとしきり遊んだあと息をつくと、満開の桜の花がひらひらと散り始めていることに気がついた。花びらは次から次へと落ちてくる。地面に目をやると、すでに褐色に変わり始めた花びらや踏まれて汚れてしまった花びらが気になった。たった今がくから離れ風に乗ってきた花びらは透き通るような桜色をしているのに、地面に落ちた瞬間からその美しさは失われていってしまうのだ。そうだ!私はジュースが入っていた瓶を洗い、まだきれいな花びらを選別して拾っては瓶に詰めていった。
それから時は過ぎて、高校生になった私は、自室のクローゼットの奥にある大きな箱の中にその瓶を見つけた。瓶の底には薄汚れた茶色の塊がこびりついている。この薄汚れたものはいったいなんだろうとおそるおそるふたを空けた。その時、ほんの一瞬、わずか桜餅のにおいがした。本当はしなかったのかもしれないが、したように感じた。そして、私の目の前に10年前の光景がよみがえった。あなた、桜の花を瓶に封じ込めたら、時も一緒に止まると信じていたの?
どうやら私は今でも信じているらしい。信号待ちで目についた松ぼっくり。小さい人にもらった道端の石。床に落ちていた猫のひげ。気づけば私の部屋は、がらくたであふれている。
mitoさんは、深い森の中にある小さな小さな遺失物保管所の管理人。そこにあるのは、私達が失くしてしまって気づかないでいるかけらたち。落とし主にかえる日を、今日も静かに待っています。