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2F/当番ノート

私を記録する

当番ノート 第26期

あなたはどんなひと と訊かれたら
写真を撮るのが好き ということくらいしか答えられない

フォトグラファーと名乗るのに違和感があるし 
写真家でもないし 写真愛好家でもない

写真で 誰かに何かできるとも どうにかなりたいとも思っていない

人と向き合って撮ったり 誰かの為に撮ったりする事はうまくできない
私は私のためにしか写真を撮れず それは私を記録する手段なんだろう

だからたとえば 絵を描くことも文章を書くことも歌を歌うことも
踊りを踊ることも音楽を演奏することも 
その手段になりえたのだけれど 私が写真を用いる理由は
”自分を切り離す事ができるから”かもしれない

「さびしさ」 というものを 残したいのだと思う

自分が見返しやすいようにとインターネットに写真を残し始めてから
時々感想をもらうようになって 本当は 驚いている
伝えるために写真を撮っていないし 届く事に期待もしていない

もし誰かが私の写真をみて何かを感じたのだとすれば
写真が何かを持っているのではなく
もともとあなたの持っている何かが 写真によって引き出されたのだろう
そういった写真は私からは随分遠いところへ行ったのだなと思うし
それでいいのだと思う

いつか私は私のために写真を本にして
ページをめくりたい

IMG_3510

mito

mito

写真を撮るおばけ
from France

Reviewed by
ふき

静かな森を歩いていたら、写真が1枚落ちていた。少し先にもまた1枚。あ、あそこにも。まるでヘンゼルとグレーテルの兄弟が目印に落としたパンくずのようにずっと奥まで続いている。私は、それをついばんでしまった小鳥さながら拾い集めては先を急ぐ。いったいなにがあるのだろう。森の中を奥へ奥へと進みながら、20枚ほど拾っただろうか。落ちていた最後の写真を手に取り顔を上げると、そこには大きな一本の木があった。いつの間にか辺りは雪が積もっていて、手にカメラを持った妖精が、大木を見つめていた。。妖精がシャッターを切った。その瞬間、紙がひらひらと地面に落ち、大木は目の前から消えてしまった。妖精は紙には目もくれず、さらに森の奥へと進んでいった。私は走っていき、紙を拾った。雪をかぶった大きな木の写真。なんて美しいんだろう。しばらく見とれていたら不思議なことが起こった。写真の隅から風景が変わっていったのだ。雪の森は桜の広場に変わり、花びらがひらひらと舞っていた。それはまだ子供だった頃の私が足を運んだ湖のほとりにある広場だったのだ。

miroさんが切り取る「さびしさ」は心の奥をなでていく。わたしが仕舞っている「さびしさ」はなくなってしまった帰る家。「失うことは生きている証」なんだとある写真家が言っていた。ないことのさびしさ、なくなってしまったことのさびしさ、欠けているもの。「さびしさ」を切り取った写真は自分の場所を確かめるためにあるのかもしれない。

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