日本から帰ってきて一週間になります。恐らくジュースが恋しくなってくる頃です。大学ではフレッシュジュースがかなり安く売られています。シンガポールの最後の日は大好きなアボカドミルクシェイクを大学の食堂で飲みました。トロピカルフルーツのジュースはとても美味しいですね。
さて、先週までKendama Club EnとKendama Fest! Japan X SGのことを中心に書いてきました。今週は敢えて趣向を変えて、僕自身とけん玉の関わり合いについて書こうと思います。
なぜけん玉を始めたのか。最初は小学1年生の時の学童保育でした。トータスというブランドのけん玉でした。木目のついたけんにピカピカの赤い玉が糸に繋がれています。小さな手にやっと収まるサイズです。一番簡単な大皿を載せようとしても載せられないあのもどかしさ。僕のけん玉との出会いはほのかに覚えています。
基本的には暇なときに遊ぶという感じなのですが、みんなで一緒にけん玉をする時間もありました。もしかめという技をみんなで一緒に練習して、学童保育の発表会で披露することもあったような気がします。月に1回けん玉認定会というのがありました。
小学1年生の頃は、けん玉以外のもので遊ぶものが多く、上達は遅かったです。初めてけんに指す技のとめけんができたのは1年生の10月と、始めてから半年経っていました。
2年生になり、街中の学校に転校しました。そこでも学童保育でけん玉をしていました。運動場が狭くなり、さらに運動場で遊ぶには一種の許可がいるという少し窮屈な感じになりました。屋内にいることが増え、けん玉を手に取る機会が増えました。上達は速く、2年生の終わりには1級をとり、初段の技もいくつかできるようになっていました。
当時はけん玉が好きで、おつかいに行く時、もしかめをしながらスーパーまで行ったこともありました。あのトータスのけん玉もすっかりボロボロになりました。玉を見ても塗装が取れて、木地しか見えず、それがかつてピカピカの赤い玉だったことは想像できないほどです。
3年生の4月に初めて、母に日本けん玉協会北摂支部のけん玉教室に連れて行ってもらいました。まだネットも発達していない時代です。母はよく調べてくれたなと思います。
1回目のけん玉教室の体験は今でも鮮烈です。
大学生のお兄ちゃんがけん玉をしていました。その人が北川五段(当時)でした。両手でけん玉を大車輪飛行機のようなことをしていました。文字通り圧倒されたのを覚えています。けん玉でこんなことができるのかと。KendamaUSAの動画の100万倍くらいの衝撃でした。
もう一人お兄ちゃんがいました。精緻な技をピタッとこなすのです。その人が曽我六段(当時)です。持ち方や技術的な部分は曽我六段から教わりました。
大車輪飛行機(動画)
動画をご覧になったら、分かると思いますが、両手でこれをやると絶対に絡まりますよね。北川先生の技は僕にとって、今でも何も理解できない伝説の技です。
母に連れられて、北摂支部のけん玉教室に月に2回足を運ぶようになりました。その頃は子供といえば、僕くらいしかいませんでした。それでも新たな技ができるようになるのが嬉しくて、毎回行っていました。今、けん玉をしている子供を見るととても懐かしいです。
北摂支部のけん玉教室は互いに切磋琢磨し、誰にもオープンな教室です。毎回新しい人が来て、自分も技を教えることもありました。ゲームを取り入れて、新しい人も楽しめるようになっています。昨年訪れた際にもその雰囲気がしっかりと残っていて、懐かしく思いました。
ここで子供の頃のけん玉の思い出話を2つ。
その頃、ちょうどモンゴルでけん玉が広がっているという話を聞きました。日本けん玉協会からモンゴルに指導者が派遣されていたのです。10年前のことなので、今思えば隔世の感ですが、子供ながらにけん玉が世界に広がっていくのだなあと、一けん玉愛好者として何とも言えない興奮を覚えました。
小学5年生の時に、北川先生が夢元というけん玉が出たよと北摂支部に持ってきました。今もそうですが、けん玉のブランドには全くこだわっていませんでした。こだわるといっても、当時は競技用けん玉のブランドといっても数える程しかありません。新富士、桜、TK16くらいだったと思います。大空も出ていなかった頃でした。
夢元を試させてもらいましたが、特に何も感じませんでした。感性が足りなかったのでしょうか。今、夢元無双というけん玉がありますが、そのけん玉の前身とも言えるけん玉です。
買うかと聞かれたのですが、買いませんでした。
シンガポールのけん玉プレイヤーからよく聞かれます。
「OGMugen(注:OGMugenと言われているようです)を持っているか」
「僕が小学5年生の時に出たのを覚えているよ」
「何で買わなかったんだー!?」
今思えば買っておけばよかったなと思います。今では伝説のけん玉です。
けん玉教室でみるみる上達し、4年生の時に、けん玉道四段を取得しました。
5年生の時に、文部科学大臣杯という大会で、念願の予選通過を果たし、関西の小学生で8位に入りました。努力の成果が報われたなと思いました。もしかしたら、東京に行けるかもしれない!東京に行けるというのは魅力でした。絶対に決勝に行ってやる!もちろんそんな簡単ではなく、けん玉の強い石切小学校の壁に阻まれました。
それから数年、けん玉を中断していました。ひょんなことから、けん玉をまた中学でやるようになりました。それで、中学校2年生の時に友達とけん玉愛好会を作りました。学校に認定されていたわけではないのですが、それでも何人か毎回来てくれ、初段レベルの子も出ました。
かなり丁寧に持ち方から教えていたのですが、型にはまった教え方で、楽しんでもらうということを重視できていなかったのかもしれません。新しく来てくれた人の持ち方を矯正しようとして、けんかのような感じになったこともありました。
ある日、自分が途中でモチベーションを失い、けん玉クラブをやめることにしました。少なくない人を巻き込みながら、自分のモチベーション不足のために畳んでしまった。トビタテでけん玉クラブを作ると決めた時に、一番引っかかっていたのはこの部分でした。「人を巻き込みながら無責任にも途中で放り出す」ことを恐れていました。
僕のけん玉の暗黒時代が始まりました。10年間けん玉の時間が止まっていました。たまに人に見せるときには、昔取った杵柄で凄そうに見える技もできるのですが、練習もしていないので、成功率も悪く、無様でした。
シンガポールに留学を決めたのは、一昨年の8月です。英語、中国語を使える環境であること、多民族社会に身を置きたかったことが理由です。全くけん玉とは関係ありません。
僕自身、まさかシンガポールでけん玉をやることになるとは思ってもいませんでした。
以前書いたように、自分のけん玉時計が10年止まっていることも知らず、むしろシンガポールでけん玉を引っ張ってやろうと思って来ました。こちらで自分こそが遅れていることを知り、挫折感を感じました。10年止まっていた時計を進めて、追いつくには時間がかかりました。
このシンガポール留学はあと1週間もありません。色々な思いや狙いを込めて再開したけん玉ですが、やりきったという感じです。昔からの積み重ねが生きたと思えるけん玉生活でした。