地下鉄の駅を出て長い階段を上り、交差点に立った時、和光ビルの時計が九時を告げた。周囲のけばけばしい明かりとは違って、あの時計の光は柔らかい。けれどそれを眺めたのは一瞬で、僕は信号が青になると同時に歩き始めた。夜になったというのに、茹だるような暑さだ。
なぜ銀座に来たのか?熱風に髪をなびかせながら、僕はふと疑問に思った。ここ最近ずっとそうだ。僕は自分が何をしようとしていたのか忘れてしまう。お湯を沸かした。何のために?買い物に出掛けた。何を買いに?思い出せるときもあれば、思い出せないときもある。
だからこんなことにはもう慣れてしまった。慌てることはない。僕は深く息を吐き、足元の真っ白なスニーカーに目をやり、ゆっくりと顔を上げて夜の街へと視線を泳がせた。
寿司だ、と僕は思い出した。寿司を食べようとしていた。そのために銀座へ来たのだ。別に、寿司を食べるだけならどこでもできたかもしれないけれど。
昼に定食屋でカツ丼を食べたら胃もたれをおこしてしまい、午後は家でじっとして過ごした。夜になっても空腹を感じなかった。少し動かなければ腹は減らないと思ったけれど、そもそもここ数日、何をしていてもまともな空腹を感じた覚えがなかった。コンビニでお粥を買うという選択肢は、どこか侘びしい。今の自分なら、寿司くらい食べてもバチはあたらないだろうと思ったのだ。せめて何かひとつ、良い思いをしてから一日を終わらせたかった。
五丁目の方角に向かって歩いていると、落ち着いた店構えの寿司屋を見つけた。表に貼り出されたメニューを見る限り、そこまで高額ではない。どうせ酒は飲まない。のれんをくぐると、酢飯と出汁の匂いがほのかに香った。
「いらっしゃいませ」
若い見習いらしき青年が丁寧にお辞儀した。
店はこじんまりとしていて、カウンターとテーブル席が幾つかあるだけだった。僕はカウンターに通され、冷たいおしぼりを受け取った。涼しさと清潔さに、僕はほっとした。ガラスケースの中には魚が宝石のように並べられている。
僕は運ばれてきた緑茶を一口飲むと、マグロを注文した。板前が切れ良く返事をして、あっという間にマグロを握った。皿に置かれたものを手で取って食べると、つるりとした食感が口の中を満たした。僕はゆっくりと咀嚼した。美味しい。何かを美味しいと感じたのは久しぶりだった。僕は時間をかけて寿司の余韻に浸った。その次はエビとウニを注文した。どれも美味しかった。少し食べれば充分だと思っていたのに、食べれば食べるほど食欲が出てくるようだった。
しばらくすると、右隣から視線を感じた。僕のすぐ隣は空いているが、そのまた隣の席には女性が座っている。僕は横目で彼女を見た。彼女は髪を肩まで伸ばし、薄手の黒いサマーニットを着ていた。
「美味しいですね」
僕は固まった。声をかけられるとは思っていなかった。念のため周囲を確認したが、彼女は間違いなく僕に声をかけていた。口元には微笑みらしきものまで浮かべている。僕がはい、と頷くと、彼女はほっとしたようだった。
「よく一人で来るの?こういうところに」
低くて落ち着いた声だった。僕はまだ少しどきどきしながら彼女を見た。
「いえ、初めてです」
「今日はどうして来たの?」
僕はどこまで正直に話すべきか迷った。
「美味しいものが食べたいと思って」
彼女はなるほど、と言って頷いた。彼女の耳には小さなトルコ石のピアスがぶら下がっていて、彼女が動くたびにゆらゆらと揺れた。
「あなたはよく来るんですか、こういうところに」
彼女は頷いた。
「普段は簡単に作って済ませちゃうの。野菜やお肉を蒸したりして。でもね、私も時々美味しいものが食べたいなって思うときがあるの。ただ一人だと気が進まないから、人を誘ってこういうお店に来るのよ」
彼女はそう言って彼女の右側の席をちらりと見た。そこには使いかけの箸と皿、男物の腕時計が置かれていた。
「電話がかかってきた瞬間、煙みたいに消えちゃったわ。ねえ、もしよかったらお吸い物を頼まない?」
僕もちょうど温かいものを飲みたいと思っていたので、僕らはそれを頼んだ。
「ごめんね、いきなり声をかけたりして。食事の邪魔になってない?」
「ちっとも」
蛤のお吸い物が運ばれてきて、僕らはそれを飲んだ。こんなに美味しいお吸い物を飲んだのは初めてだった。やわらかく甘く、細胞の隅々までしみこんでいく。僕は自分が正常な味覚を取り戻したような気がした。
「美味しい」
彼女がにっこりと笑うのを見て、僕も笑った。見ず知らずの他人に声をかけるわりには、真面目そうな人間に見えた。小学校の頃に学級委員をやっていたような雰囲気だ。彼女の連れ合いはどうして戻ってこないのだろうと僕は思った。うろ覚えだけれど、店に入ったときから、誰もあの席に座っていなかったような気がする。つまり少なくともこの三十分、彼は席を離れているわけだ。
彼女はメニューを指差した。
「煮物はどう?」
「いいですね」
僕は頷いた。けれど、男のことが気になった。彼女と親しげに料理を分け合っていて大丈夫なのだろうか。
「気にすることないわ、きっと戻ってこないから」
僕が空いた席を見ていることに気がつくと、彼女はそう言った。
「どうして?」
「彼はね、新聞記者なの」
「新聞記者?」
「そう、とても忙しくて、とても有能な新聞記者」
「美味しい寿司とあなたを置いていかなければならないほどの?」
彼女は悲しげに目を伏せて頷いた。
「食事中に電話に出るときは、せめて私に一言断ってほしいってお願いしたのよ。でも駄目みたい。電話が鳴ると、彼は私のことも、目の前にあるお寿司のことも、一瞬で忘れてしまうの。本当よ。電話が鳴ると魔法みたいに、私もお寿司も石ころになってしまうの」
石ころ。僕はその言葉を頭の中で反芻した。そして彼のことを想像してみようとした。新聞記者として懸命に働き、電話がかかってくると目の前の彼女も寿司も、一瞬で忘れてしまう彼のことを。
「僕には想像がつかないです」
「きっと近いうちに別れるわ」
僕は驚いた。
「そんなに」
「だって悲しいんだもの。私が彼の世界の中で、石ころになってしまうのが。石ころになるのって、本当に辛いのよ」
若い見習いが煮物の皿を運んできた。彼女が連れ合いではなく僕と話していることに、寿司屋の人たちは一片の違和感も抱いていないようだった。
「子供の駄々みたいでしょう」
彼女は小皿に白身魚とにんじんと蓮根をとり、上品にそれを食べた。僕はしいたけをとり、咀嚼した。出汁がよくしみこんでいる。
「我慢はよくないと思います」
まるで自分自身に言い聞かせているようだと僕は思った。けれど僕は、今まで何かを我慢していたつもりはない。平穏に、過不足無く暮らしてきた。それなのにどうしてこうなってしまったのだろう。
「ねえ、あなたは恋人にこうやって一人にされたら、悲しい?」
僕は少し考えた。
「きっと。でも僕は鈍感だから、自分が悲しんでいることに気付けないかもしれない」
「私も鈍感になれたらいいのに」
彼女は不満そうに言った。僕は首を傾げた。
「それはそれで、良い思いはしないかもしれません」
「どうして?」
「僕は医者に止められて仕事を休んでいるんです。それまでは何も問題なく暮らしてきたつもりなんですけど、きっと気付かないうちに何かをかけ間違えてしまった。僕は鈍感だから、その何かに気付けなかったんだと思います」
彼女は僕の顔をじっと見た。
「具合が悪いの?大丈夫?」
「今は大丈夫です。ただ、理由が思い当たらないんです。特別悲しいことがあったわけでも、不規則な生活をしていたわけでもないんですけど」
彼女はしばらく考えこんだ。
「私の周りにも体調を崩して仕事を休んだ子が何人かいたわ。原因はハッキリしていた。仕事が大変だったり、人間関係で苦しんだりね。でもあなたにはそういった原因らしきものが思い当たらないのね?」
「無いです」
「あるいは、鈍感過ぎて気付いていない」
「そうです」
「鈍感であるというのも、考えものね」
僕は深く頷いた。
「もしかしたら彼も、あなたがここまで傷ついていることに気付いていないのかもしれない」
彼女は微笑んだ。
「そうね。文句を言うまでは、私が寂しがっていることに気付いていないみたいだった。ちょっと考えてみれば、わかると思うんだけど」
「伝えてみたら、何か変わるかもしれません」
彼女は首を傾げた。
「どうかしら。彼と付き合ってわかったことがあるの。それはね、自分が悲しんでいる理由を説明するのは、とんでもなく心が折れるということよ。もちろんお互いのことを理解したいから、努力はするの。でも、悲しい気持ちはどんどん積み重なっていくの。彼に理解できないことを無理やり理解させようとしているみたいだし、重荷に思われたくないし・・・駄目ね。やっぱり子供みたい」
彼女は話しているうちに首を小刻みに振り始め、無理に笑ってみせた。
「そんなことありません」
僕はできるだけ優しく言った。
若い見習いが空いた皿を片付け、緑茶を運んできた。
「どうして彼と付き合おうと思ったんですか?」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「素晴らしい人なのよ、電話がかかってこない限りは。それに、逞しい腕を持っているの。ラグビーをしていたのよ」
彼女は運ばれてきた緑茶を両手で包み込み、じっとそれを見ていた。僕は彼女のトルコ石のピアスを見つめた。それは静かに、彼女の頬に寄り添っていた。
「ありきたりな言葉かもしれませんけど、あなたはもっと素敵な人が現れると思う。電話がかかってきてもそれに気付けないほど、あなたを大切にしようとしてくれる人が」
彼女はにっこりと笑った。
「ありがとう。ねえ、仕事はいつまで休みなの?」
「あと二ヶ月は休む予定です」
「その間どうやって過ごすつもりなの?」
「まだ何も決めていません。でも、医者の言われた通り、おとなしくして過ごすと思います」
「お願いがあるんだけど」
彼女は本当に申し訳なさそうな面持ちで切り出した。
「ここは私に支払わせてほしいの」
僕はびっくりして首を振った。
「そういうわけにはいきませんよ」
「お願い。知らない人にこんなふうに話しかけたのは初めてなの。なんだか恥ずかしくなってきちゃって」
「恥ずかしいことなんか無いですよ。僕は話せて楽しかったです」
彼女は顔を赤らめてこちらを見た。
「それでもお願い。あなたが元気になったらここでまた一緒にご飯を食べてくれる?そのときにご馳走してもらって、帳消しにするっていうのはどう?」
彼女の懇願っぷりと、元気になったらという言葉を聞いて、僕は渋々了解した。お互いの連絡先を交換し、僕は彼女を残して店を出た。
外はまだ暑かった。けれどどこかすっきりとした気持ちだった。彼女の連れ合いらしき男の姿を見ることは、最後までなかった。
<続く>
挿絵協力:keitoさん