かつては、旅といえば、現実逃避の手段であったと思う。
例えば、学生という頃。
溜まりに溜まったエナジーを放出しきれなくって、刺激不足で、未知のものくらいに出会わないと欲求不満で、時に何か爆発しそうになるから、耐えきれなくって飛び出していたような気がする。
ひとまず私のことだけをいえば、旅行には結構早い段階で飽きてしまって、誰かが用意した何かに乗るというのは、結局その囲みから逃げたくて旅に出たはずなのに、また囲いに閉じ込められているような、誰かの価値観の押し付けのような。
また時に、自分にとって価値のない時間に、費やされる時間があり、
自分にとって価値のある時間を、ないがしろにされることにもなる。
これは誰のせいでもなくて、ひとまず私という人間1人は少なくともそう思っちゃってたという感じ。
だから、どれだけヒッピーになれるか。
それを競うようにバックパッカーになって行く。
よくわかる。
ヒッピーは緩やかにいきているが、実に日々刺激的だ。
でも、ある時から、「私って、ヒッピーになりたかったのだろうか」と思うようになった。
私にとって旅は、貧乏の極みを楽しむためのことだったのか?
普通じゃ入らない川に入る。
普通じゃ入らない森に入る。
果たしてそれが自分にとっての”刺激”だっただろうか。
そう思うようになったのは、22歳の時オーストラリアの海に1人でポツンといた時だったように思う。
隣にも同じように、もちろん何を考えているかはわからないけどアボリジニ的人が座ってたりもしたけど。
そうか。
私の旅に「アクティビティ」は必須じゃないんだ。
と、気づいたのはその時だったかもしれない。
私は、旅に出た時、そこの”普通”にとにかく身を置きたい。
キャンプフリークなわけでもないから、わざわざキャンプ場に行きたいのでもない。
そしてそこに、何か「縁」を感じたい。
感じることで、明確化される「自分」という輪郭。
縁によって引き寄せられるモノコトヒトが、結果論的に自分を形作ってくれるのだなという。
それは一見複雑なように見えて、出会えば出会うほど、自分がシンプル化してくる。
そう感じてきたのは、ようやく最近になってからだなと、思う。
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つなぐひと
今井朝美
Tomomi Imai
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