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2F/当番ノート

道草のとちゅう

当番ノート 第31期

michikusa_no_tochu

こんにちは、はじめまして。
月曜日当番の、きた えまこです。
まず自己紹介をしようと思い、ハタと自分のことが自分でもよくわかっていないことに気がつきました。そこであわてて数日間、自分の今までのことなど思い返してみたのですが、、、

生まれたのは香川県高松、でもほとんど記憶はありません。すぐに大阪に引っ越し、一度はシンガポールにも住んだりして、小学校は3回転校しました。ほぼ大阪育ちですが、今は以前、数年住んだことのあるパリに暮らしています。

小さなころから絵を描くのが好きで、クレヨンで畳の上に描き、母のピアノに描き、叱られても押し入れの奥にまで落書きしてあきれられました。ついには父にふすまに紙を貼ってもらい、そこを落書きし放題にしてもらったのですが「描いていいよ」と言われてしまうとちょっとつまらなくなってしまったりするのでした。「あれを描いて」とか「これを描きなさい」と言われるととたんに描きたくなくなるのです。
いろんなことに気が散りやすく、授業中ずっと椅子に座っていられず、教室中を走り回っていると思いきや、「ごはんよ」と呼ばれても気が付かないほど没頭して本を読んでいたりする子供でした。
年ごろになって美大への進学準備もしていたのですが、絵を描くことが大好きでも、それをどんなふうに自分の将来に結びつければよいのか、なんのために毎日つまらない、やりたくない課題をこなしているのかがわからなくなり、あきらめてしまいました。

その後、ヨットに乗って海に浮いていたり、パリに住んでみたり、モンゴルの草原を馬で駆けまわったり、そのときどきに興味の湧いたものはすべて夢中でやっていたのですが、大人になってから、やっぱり自分は絵を描いているのが自分なんだと気がつきはじめたのです。そのころには会社のスケジュール帳や会議資料の余白は落書きだらけで、同じことの繰り返しや、結果のある程度わかっていることを指示されたとおりに実行していくという作業をとても苦痛に感じていました。絵を描いたり、ものを作ったりするのは、どんなに時間がかかっても、どんなに面倒な手作業でも、時間も食べることも忘れて熱中していられるのに。

思えば自分の生き方を客観的にとらえられるようになったのがずいぶん遅かったんだなぁ、と他人事のように感心するのです。実際、どこかへ行く時は地図を見ないでいきなり走りだしてしまい、結局自分がどこにいるのかわからなくなって途方に暮れたり、迷った先で案外楽しんだり、そんな道草ばかりしているような生き方をしてきました。

でも私は、もし誰かから「人生の地図」というものを渡されて、そこに「正しい道順」が書かれたとしても、それは見たくないと思う。私にとっては絵を描くことは道草のようなものなのです。それはなにか「明確な目的(終点)があって、そこへ行くために効率的にこなしていく作業」とは違う次元のものだからです。
そんな私の道草の途中におつき合いくださって、なんだかちょっと面白いな、たまには道草してみようか、と思っていただければ嬉しいです。

きた えまこ

きた えまこ

絵本を描いたり、落書きしたり、工作したりしています。ひょんなことから人生二度目のパリ暮らし中。

Reviewed by
松渕さいこ

道草をしている時に、夢中になるあまり来た道が分からなくなってしまったり現在地が分からなくなってしまうことがあるとして、
それはなんて素敵なことだろうと、思わずため息をついてしまう。

振り返ってみたりしながらの道草はちっとも楽しくないし、引き返したいときに困らないために印をつけながら歩くのはなんだか興ざめだ。
我を忘れてしまうような道草にはいつだって惹かれる。
そのせいで痛い思いも、とんでもない宝物を探し当てるような特別な思いもするけれど、だれに導かれたわけでもない自由な道草のなかでしか出会えないことがたくさんある。
予感はあってもコントロールはできない。

そう、道草は他人のみならず自分でさえも立ち入ることのできないような自由と巡りあわせが支配する世界なのだ。

ただただ当てもなく足の向く方に身を委ねて、なにかと出会う。なにかを失う。なにかを好きになる。
その自由さだけが自分をほっとさせてくれるような気持ちがする。

だから、えまこさんの「もし誰かから『人生の地図』というものを渡されて、そこに『正しい道順』が書かれたとしても、それは見たくないと思う」、という一文に私はそうだよね、と頷く。
私たちの人生から道草をなくしてしまったら、生きるってきっとゲームかなんかなんだろう。
要領よく、最短でゴールのテープを切ったひとの勝ち、になってしまう。
それなら私は、さっさとゲームのコンセントごと抜いて終わらせてしまうだろう。

道草はきっと、ふいに現れる無為な時間の集積で、その時間に生まれたものが「役に立つか」を私ははっきりと答えられない。
だけど無心になって、誰のためでもない時間を過ごすことは役に立つ以上に愛しい営みだなと思う。
この命を好く生きたいなぁと思えばどうしても、地図に書かれている通りには進んでいられない。

ヨットに乗ったり、パリに住んだり、モンゴルの草原を馬で駆け巡ったりしてきたえまこさんの道草は
奇妙な人たちや生きものに出会ったり、見知らぬ人から不思議な言葉をもらったり、するのだろうか。
私の道草は、そんなことばかりだから。
ちゃんと他の人の道草について聞いたことはないけれど、きっとどれもごく個人的で特別であるに違いない。

これから2カ月間、
えまこさんの道草から物語が聞こえてくるのを、耳を澄まして待ってみよう。

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