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2F/当番ノート

渇いた日々にさよならを

当番ノート 第40期

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窓を開けると、誰かが洗濯機を回す音が聞こえた。秋の風が涼しげに通り抜けていく。

いく層にも重なった生活音。同じアパートメントに住んではいても、顔も知らない、声も分からない。近くにいながら、全く別な時間を過ごしている。名前も知らない息遣いの中にいる。

初めてこの部屋に来た時、自分じゃない何かになれるつもりでいた。私の思い描く、私を超えた誰か。

いつも笑っていて、楽しいことに溢れていて、悲しいことは吹き飛ばして、誰かのためにしか怒らないような。それでいて、誰もできないようなことを成し遂げてしまう人。

結局は時間を経ても、私は私という器の範疇から溢れたりせず、持て余してるような不安感を煽るくらいのもので、私はどこまで行っても私だった。

どこかに行きたい。

この部屋で、私が失えたものといえば、その叫びだしそうな渇きだ。

2ヶ月間に渡って、毎週ひとつの文章を書くということ。初めは、変わっていくであろう自分を切り取って、自分のための文章を書いていければとぼんやり思っていた。

書いてみて、それによって、自分が何を思っているかの輪郭がくっきりしたということはない。かといって何も感じていないわけじゃなかった。

変わっていく、言わば自分の上澄みの部分を書いていたつもりで、どこか核をなすような、ずっとこころの底の方で思っていたことを書かざるを得なかったこと。

夏から秋に、季節がグラデーションを刻む中で、私は思ったより変わっていかなくて、それがどこか安心する気づきでもあった。

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部屋に飾った一輪のひまわりは、季節が巡ってりんどうに変わり、歩きながらこぽこぽと浮かんでくる言葉たちから寂しさが薄れた。

変わっていたいほどは、変わっていかなくて、それでもゆっくりと、人は変化しているのかもしれません。

それではまた、どこかでお会いしましょう。ありがとうございました。

山口絵美菜

山口絵美菜

女流棋士、ライター、観戦記者、造形作家
1994年、宮崎県出身。
2005年 将棋と出逢い、女流棋士になることを決意。
2013年 京都大学文学部入学
2014年 女流棋士デビュー
2017年 京都大学文学部卒業
2018年 造形作家デビュー、オリジナルキャラクター「平家駒音」をプロデュース(Twitter:@HirakeGomao)

Reviewed by
大沢 寛

晩夏から初秋へと季節が駆け抜けていくこの時期は、ときに感傷的な気持ちになりやすい。
つねに即物的で、朝から晩まで仕事に追われている僕でさえも、たとえば『モーツァルトの手紙』を書棚より引っ張り出してきて読みたくなる、そんな季節である。

モーツァルトの純真さは、彼の短い人生において培っていった高度な作曲の技術とは相反するかのごとく、生涯変わることはなかった。それどころかむしろ、当時無二の才能を持ち得ていた彼の人生はむしろ幸福とは程遠いものであった。

僕らは誰もが「自分を変えたい」と思うことがある。自分を変えようとするには、強烈な自己否定を伴うことが多いのだが、それには実際、莫大なエネルギーを要することもしばしばである。

僕も20代の頃、自分のことがイヤで、自分を受け入れることができず、何度も自分を変えたいと思っていた。しかし、30代も後半を過ぎて「何をやっても自分は自分」というひとつの結論めいた到達点に達したとき、心の中で僕に対するモヤモヤとしたすべてのことが消えてなくなった。それ以降、自分のことを受容できるようになった。

「変えたい自分」「変わりたい自己」そんな願望を持っていても自分は自分。落胆する必要もないし、ありのままの自己を受け入れていけばよい。

月が変わればまたアパートメントの住人は入れ替わる。
みんな「何か」を伝えたくてやって来るのだが、伝わらないことで何かを伝えようとする心の所産を置きみやげとして、また新しいひとを迎えるのである。

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