命日には、父が好きだった奥穂高に登って頂上で線香をさそうと思ったのに、なかなか旅行もしがたい。
仕方ないので、近場で空が開けた高い場所を探し、線香をさす真似事をしようと思う。家にはチャンダン(インドのお香)しかないのだけど、やはりダメだろうか。
実家の墓も東京も、きっと同じ空の下。
—
父の旅立った翌々日、父をよく知るお坊さんから、高級な線香をもらった。「いい匂いがするから、やってくれ」とのこと。
彼は90歳、もうお経を読むことはない。何十年も仏の世界と現世を行き来したためか、背中の丸まったズッシリとした存在は、まるで生き仏のようだ。でろんと下がった耳たぶに、ボサボサの眉毛。まわりの空気の、重力が増しているようだ。
帰ってきてから、遺影に向かって線香をさす。上品な細い煙が、まっすぐ上へとのぼっていく。さすが高級な線香、まるで芍薬のような香りがする。
遺影に向かって、体育座りをする。
まだ父がもう少し元気だったとき。畳の上に寝っ転がってを天井見ながら、「なぁ、ここは時間が止まってるみたいだろう。もうオレは何もできない。社会からいらない人間だ」とつぶやいた。西日が差し込み、鳥の声と、竹やぶの笹が擦れる音しか聞こえなかった。私はそれを聞いて、隣に一緒に横になって、「でも、家族からは必要とされているよ」と返した。
とてもナイスな返答だった。それは、自分自身が日頃から、社会から必要とされなければ生きている意味がない、という呪いのような思考を、どうにか変えたいと思っていたからだった。費用対効果が一番大事で、効率的な人間が勝ち。
でも東京に来て、様々な人と出会ってぶつかる中で、社会のためじゃなくたって、誰かのために生きていたって、いいじゃないか、さらに、自分が生きてたいと思ったら生きていたっていいんじゃないか、と感じるようになったし、そんな自分が誇らしかった。だから父に、「でも、家族からは必要とされているよ」と、心の中ではふんぞり返りながら、言ったのだった。母にも「父はこれまで社会の役に立つかどうかで人をみてきたから、今、しっぺ返しにあってるんだ」と言った。自分は、社会に役立たなければダメだ、という呪いからは、きっと抜け出しているはずだ。
でも、それは嘘だった。本当は、ちっとも抜け出せていなかった。いつも、社会から必要とされなくなったらどうしよう、と怯えている。まわりからの評価、しかも肯定的な評価がなくては、自分を維持できない。本当に内弁慶だった。
四十九日を迎えるまでは、線香の火は絶やしてはいけないという。それは、閻魔さまのお裁きを受けるまで、そこまでの道を迷わないように、明かりを灯しているのだそうだ。そして家族は、故人が極楽浄土に行けるよう、できるだけ仏壇の前で手を合わせるべきとされているらしい。
やましい嘘を知られたら、父は極楽浄土に行けないかもしれない。なので手は合わせず、体育座りをしたまま、心の中で「あのときはごめん、本当はあのとき、かばっているふりをしていた」と父に謝った。
線香は、燃えて灰が落ちるのを見るものだと思っていたけれど、本当は、煙の方を見るものなのかもしれない。母がさしたのと二本、真っ白の線が並んで登っていく。天井に近づくと徐々に形態を崩し、どこに届くでもなく、やがて空に溶けた。