「なんで一人暮らししようと思ったの?」
その人は興味深そうにそう聞いてきた。
緊急事態宣言解除後の最初の土曜日、私たちは会っても良いものかと迷いながら、だけどやっぱり会うべきだと思ってオフィス街の喫茶店に入った。
「勢いですね」
私は笑いながらそう答えた。
その人は私が学生の頃からずっとお世話になっている人で、偶然にも母親と名前が字まで同じという第二の母のような人。
食事はほとんど自炊をしていると言うと「すごじゃん」と褒めてくれた。一人でレタス一玉は食べきれないと言うと「カット野菜は栄養がほとんどないから、ちゃんと野菜を買いなさい」と、本当の母のようなことを言われた。
喫茶店を出て駅に向かう道中、「家にシュークリームを買って帰るからついて来て」と言われ、言われるがままについて行った。鎌倉で有名なニュージャーマンという洋菓子店の「かまくらカスター」というシュークリーム。海街diaryにも登場する鎌倉では有名なお菓子らしい。神奈川に住んで二十年以上経つが、私はその店を知らなかった。
このまま実家に帰るという私に、その人は「お父さんとお母さんと食べて」と、私の家族用に「かまくらカスター」を持たせてくれた。
実家には時々帰るけれど、それもだんだん面倒になってきてしまった、と言うと「それが自立ってものなのかもね」と、その人は言った。
「自立」という二文字で片づけられてしまいたくはなかったけれど、側から見ればこれが「自立」なのだろう。
私がしたかったのは「自立」とか、そういう堅苦しいものじゃない。「開放」とか「安心」とか、そういう類のものだ。
実家に帰り、母親と一緒に「かまくらカスター」を食べた。箱にはカスタード、抹茶、チョコレート味が入っていた。3種類の味を半分にして母と分け合った。生地もカスタードもふんわりとしていて、やさしい甘み。母も「かまくらカスター」を初めて食べたと言う。我が家は神奈川に越して来てだいぶ経つけれど、他県からやって来たよそ者なので、この街のことはまだまだ知らないことが多い。
実家で暮らしていた時は、リビングにいることが苦しくて苦しくてたまらなかった。特別、仲が悪いわけではない。一般的に見れば「愛情をたっぷり受けて育った側の人間」だろう。贅沢な悩みなのはわかっている。でも、与えすぎはよくない。
両親にして欲しかったことは、もっと失敗したり、自分で選ばせて欲しかったということだ。
別に、学校のテストの点数は百点しか認められないとか、いい会社に勤めなさいとか、そういう期待をかけられていたわけではない。ただ、ふつうの高校や大学に行って、ふつうに就職して、ふつうに結婚して出産して……。両親の抱く「ふつう」の人生観が、もはや「ふつう」ではないことに気づいたのはここ最近のことだ。それに気づくまではそういう人生が「当たり前」で「ふつう」のことだと思っていた。これまで、両親は私が「ふつう」から外れないように注力してくれた。本当に私を思ってなのか、自分たちのためなのか、それは聞いてみなければわからないけれど、私は両者が混在しているような気がする。
一から十まで両親の言う通りにしてきたわけじゃない。習い事とか洋服とか、私の意思を尊重してくれる場面はちゃんとあった。だけど、いつもそれが聞き入れられる訳ではなかった。もちろん大人の事情もわかる。けれど、他人からどう見られるかとか「女の子らしく」じゃなくて「私」の声を、「私」そのものをもっと見て欲しかった。
でも、私って生まれた時からすでに「ふつう」から大きく外れている。
これを「個性」と呼ぶべきか「病気」と呼ぶべきか、何と呼ぶべきか非常に迷うところではあるけれど、私には生まれつきの病気と呼びづらい病気を持って生まれてきた。だから、生まれた時点ですでに「ふつう」の路線からは大きく外れていることになる。両親の望む「ふつう」を、私は初めから叶えてあげることができない。だから「ふつう」を求められることが嫌だった。
思春期真っ盛りの自意識過剰で厨二病をバリバリに発症していた当時の私にそっと寄り添ってくれたのは音楽だった。ネット上に記された病気の情報を見て、どうせ、大人にはなれやしないし、と将来に希望を持てずにいた。そんな私にとって、週末にツタヤでCDをレンタルして、それをiPodに落とし込む。そうすることで毎週毎週を引き伸ばしていたと思う。
イヤフォンをしていれば、何を聴いていようと誰にもバレやしない。そのなかで、特に私の心を引きつけたのは、Bank Bandの「遠い叫び」だった。叫べない私の代わりに、叫ぶ音楽を聴いていた。
何に、誰に罰せられていたのか、今でもよくわからないけれど、でも苦しかった。それだけは確かなこと。
だから、今こうして母親と向かい合って一緒におやつを食べていることが不思議だ。苦しさは味覚も麻痺させる。心から「おいしいね」と言えたことがとても新鮮だった。このおいしさは、単純に味がおいしいか、そうじゃないかの問題じゃないんだ。気持ちによって、味も気持ちも「おいしい」と感じられたんだと思う。ずっと一緒にいることが苦しかったから、離れて暮らすことでおいしさを感じる味覚を取り戻したんだと思う。
そんなことを思いながら、私たちのすぐそばでは17歳になる愛犬のビンゴはすやすやと寝ている。ビンゴに忘れられないうちに、また帰るね。