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2F/当番ノート

肩の力抜いて

当番ノート 第51期

夏が近づいている。晴れの日の朝は、カーテンの隙間から日差しが差し込み、起きると首回りがベタついている。

起きる時間の三十分ほど前からアラームを設定し、十分おきにアラームが鳴って、それを解除する動作を繰り返してようやく起き上がることができる。本当ならばもっと寝ていたい。餃子型のクッションに顔を埋めて「うぅ」と唸る。起きてから、家を出るまでの間は最高に仕事に行きたくない。

社会の歯車になってしまうことにどこか虚しさを感じていたけれど、結局のところは小さな小さな歯車として、この社会の中で回り続けている。

ため息をつきながら気怠い身体を起こし、トイレに行き、顔を洗って、台所へ向かう。「今日は何にしようか」と、とりあえず冷蔵庫の中を覗く。覗くと言っても、冷蔵庫の中身は大体いつも変わらない。朝の三十分で朝食とお弁当を作る。朝食は大体目玉焼きとパン。お弁当もおかずが二、三品入ったもの。仕事で料理をしているからか、料理の手際はよくなった。

自分の好きなようにできるから料理はわりと好き。経験値がわかりやすいほどに活きる。ただ、引っ越してきて一ヶ月半がすぎた頃、私の中の自炊熱がだんだんと冷め出しているのがわかった。

お弁当を作るくらいなら、後三十分寝ていたい。「一人暮らしが楽しいのは最初だけ」という話をよく耳にするけれど、私も典型的なそれなのかもしれない。

一人暮らしを始めた時、私の中ではかなり「自炊しなきゃ」と強迫観念に近いものがあった。「自炊してこそ立派な一人暮らし」という思い込み。今となってはそんなことどっちでもいいよなと思ってしまう。

引っ越してきて初日、私は早速台所に立ち、一口コンロの狭い台所で、作り置きのコールスローを作るべくキャベツを千切りにしていた。私はこの部屋にとってはまだ異物であるかのように、部屋と自分はまだ全く一体感がない。私もまだこの部屋のことをあまりよく知らないし、部屋も私のことを何も知らない。前にこの部屋に住んでいた人はあまり料理をする人ではなかったみたいだけれど、これから私がこの部屋とどう関わっていくのか、この時はまだ部屋に遠巻きから様子を伺われていたような気がした。知らない人に急に上がり込んできて、さぞかし不安だったでしょう。

私も、早くこの部屋に慣れようと意地になってキャベツを刻んでいた。キャベツは見かけ以上に硬い。狭いキッチンには調理スペースがなく、流しの縁と縁にまな板をかけるしかない。切るたびにガタガタと揺れ、とても不安定だ。始めたからにはもう後戻りできない。そんな思いで刻み続けた。でも、途中でやめておけばよかったのだ。何かの拍子でキャベツと一緒に自分の指にも包丁の刃を入れてしまった。

指先はあっという間に傷口が見えないほどの血で溢れていて、「大変なことになった」とすぐにわかった。冷静に動揺していた。

後になって、「自分は張り切りすぎていたのだ」と気づいた。気持ちが浮ついた張り切りじゃない。「ちゃんとしなきゃ」の張り切りだ。あれだけ「ちゃんと」や「まとも」や「べき」が生きづらさを生むとわかっていながら、それでもまだ私の中には「ちゃんと」が巣食っているのだ。こわいこわい。

思い返せば、私が子どもの頃の母親も「ちゃんと」料理をする人だった。外食もほとんどしたことがない。余計なものが一つも置かれていないきれいな食卓に、きれいなご飯が毎日並んだ。子ども向けのアニメ番組の合間に流れるファミレスのチーズインハンバーグはリアリティがなかったし、普段家で食べているものと比べると、なんだかものすごく悪い食べ物のようにも思えた。

その頃の母は普段は優しいけれど、ちゃんとできないと厳しく怒るこわい人だった。当時はわからなかったけれど、多分必要以上に厳しい態度だったと思う。私にも厳しかったけれど。自分にも同じくらい厳しくしていたのかもしれない。そんな状況を見た父は、助けてくれたり助けてくれなかったりだった。こんなこと言いたくないけれど、母も苦しそうだった。だからと言って、それを許していいかはわからない。許す、許さないの二択では決められないような気がする。もっと選択肢が欲しい。

私が働き始めると、母は缶チューハイ片手に夕飯の支度をするようになった。お酒が弱いから、一本だけか、日によっては一本も飲みきれない日もある。出てくるものも、個人営業の居酒屋のようなメニュー。手軽で簡単にすぐできるものが増えた。どれだけ簡単になっても、味は外さない。父が「小料理屋ができるね」と褒める。食卓の上に何日分かの新聞や読んでいないフリーペーパーが乗っていても、「ちょっとどければいいでしょ」とその山を端に寄せる。まあ、大体は父の方に行きがちなんだけど。

母の料理は、今の料理の方が好き。どれだけ手間暇がかかっていようと、「ちゃんと」するために無理をして作ったものより、無理せずやってくれた方がいい。

必ずしも「ちゃんと」するだけが正しいわけではないと思う。「ちゃんと」するだけが愛情でもないように思う。

ではなぜ、私たちは「ちゃんと」に蝕まれてしまっていたのか。

誰に強要されたわけではない。でも、蟻地獄みたいにするする落ちていったね。

せっかく手に入れた部屋も、「ちゃんと」があると息苦しくなる。誰も見てないから、本当は頑張らなくてもいいんだ。「ちゃんと」しようとするあまりに、肩に力が入った私を部屋は拒むだろう。「ちゃんと」してなくてもいいんだ。お菓子もカップラーメンもカロリーメイトもある。大丈夫、「ちゃんと」してなくたって心も身体も元気でいられる。

神原由佳

神原由佳

1993年生まれ。
社会福祉士、精神保健福祉士。
普段は障害者施設で世話人をしています。
納得を見つけていきたいと思っています。
にんげんがだいすき。

Reviewed by
早間 果実

「ちゃんと」って言葉は自縄自縛を強いる厄介な呪いだ。
行動へのダメ出しのニュアンスを含むけど、「何がダメなのかは自分で考えなさい、わかるでしょそれくらい」と、具体的なことはボカす。
その結果、キャッキャしてるアニメは観たらいけないとか、ファミレスのチーズインハンバーグは悪い食べ物だとか、ヘンテコな暗黙の了解ができあがる。
明確な線引きがないから、どんどんどんどん際限なく、自分の欲や好奇心にブレーキをかけるルールを増やしていってしまう、お互いに。
けれども、そこに明確な悪意があることなんて、ほとんどないのだ。
わけもなく受け継がれた「ちゃんと」は、わけのわからないまま、またわけもなく譲り渡されていく。
みんなで「ちゃんと」しようと頑張って、誰のためでもなく、みんながちょっとずつ窮屈になっている。
それさ、解体していきたいよね。わけもないのに、あんまり頑張らなくていい。
当たり前とか体裁とかどうでもよくて、そこにいる人たちが、それぞれ一緒に、らしくいられるように。
それにはきっと、言葉が、会話が、時間が必要だ。
あと最後にひとつだけ。
解体しきった先で、それでも「ちゃんと」や「頑張る」がしっくり来る瞬間も、あったりするかもしれない。
呪いは呪術で、魔術で、魔法だ。
言葉では掬いきれないものがあるとき、それを複雑なまま抱き寄せる魔法としての「ちゃんと」。
うん、あったりするかもしれない。

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