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2F/当番ノート

やがてそれも、化石になる(6)ブルーギル

当番ノート 第52期

 いこいの森、と呼ぶにはあまりに鬱蒼とした森(じっさいは林くらい)が小学校にあった。
 松の木がどしんどしんと植わっていて、小さなため池に育ちすぎた亀と鯉がたくさんいた。手入れがあまりされていないぶん、自然の生き物が自由に暮らしていた。森は静かで、つめたく湿っていて、地面は濡れた枯葉でふかふかしていた。森の奥には二宮金次郎の銅像が建っていた。

 6年生は「いこいの森」にタイムカプセルを埋める、というのが築150年近くの歴史ある我が校の習わしで、毎年冬休みになるとかつての6年生たちがスコップを持って集まり、自分たちのタイムカプセル──写真や絵、友達とお揃いのミサンガ、野球ボール、未来の自分への手紙など、大きなものでなければ何を入れてもよかった──を肴に年の瀬の思い出話に花を咲かす、というものだった。
 わたしたちのクラスも、もちろん伝統に倣った。
 わたしは未来の自分へ手紙を書いた。それ以外に思いつかなかったから。それでも、お元気ですか、から始まるあの短い手紙は、大人の女のひとに読まれるのだという緊張感に充ち満ちていた。
 他の子のビー玉やシール、お気に入りの缶ペンケースや図工でよく描けた絵、ずっと友だちと書かれた写真なんかといっしょにわたしの小さく小さく折りたたまれた手紙は大きなお菓子の缶に入れられたあと、水が入らないよう何重にもビニールで巻かれて、そして森の奥に埋められた。

 夏休みが空けると、手も足も顔も真っ黒に日焼けしたクラスメイトたちの話題はタイムカプセルで持ちきりだった。
 夏休みに入る前に埋めたそれを、休みの間に男の子たちが掘り起こしたというのだ。大のお気に入りのカードゲームを入れたが、惜しくなったらしい。
 すると、タイムカプセルがなくなっていて、代わりに手のひらほどの魚が土にまみれて死んでいたというのだ。
「ブルーギルだった」
 父親と釣りによく行くという男の子が、エラのとこが青かったからまちがいないよ、と言った。初めは勝手にタイムカプセルを掘り起こした彼らを責めていたクラスメイトたちは、それを聞いてみんな黙ってしまった。誰も先生に言わなかった。

 だいたい、残すだけなら箱にしまって、倉庫にでもしまっておけばいい。
 それをわざわざ土の中に埋めて、うんと時間が経ってから掘り起こすなど、手間がかかりすぎているし、なんというか、儀式的だとおもう。儀式的──なんてばかげた響き!けれど、ほとんどぜったい、そう。
 たぶん、タイムカプセルというのは森の中で生きるなにか──たとえば、そう、キジバトとか、池の亀とか、飼育小屋のうさぎ、いっそ松の木でもよかった──にうまく化けて、掘り起こされる時を森で暮らしながら待つのだ。
 そうしてすっかり時間が経ったころ、しめやかに元の姿に戻って、彼らは土の中に帰り、何食わぬ顔で掘り起こされる。ああ、久しぶりの空気、とでも言いたげに。
 わたしはすっかり自分たちのタイムカプセルが気の毒になった。ちいさな魚の姿で、土まみれになって死んでいた、わたしたちの。


 そういうわけで、ブルーギルを見るとわたしは切ない気分になる。

青柳 ハルコ

青柳 ハルコ

1989年生まれ。
名古屋在住。文筆家。
雑貨と住居と海外ドラマとトーストが好き。

Reviewed by
冬日さつき

 タイムカプセル、わたしも小学校のころくらいに埋めた記憶があるにもかかわらず、掘り起こした記憶がない。じぶんが同窓会のようなものに出ないような大人になると、あの頃のわたしは気がついていただろうか?

 ブルーギルになってしまったタイムカプセルのことを考える。やり方をまちがえたタイムカプセルが、魚となって死んでしまった。でもこういうふうにも考えられる。もしもすぐに掘り起こされてしまったならば、そこにないという事実により、べつの姿にかたちを変えているようすが知られてしまう可能性がある。土の下は未来とつながっていて、その将来を予期したタイムカプセルが、あえてじぶんをブルーギルへと変えた? それが土の中では生きられないことを知っていたから。

 化けて森でうまくやっていたタイムカプセルたちも、なんらかのトラブルで命を落としてしまうこともあるかもしれない。その場合は、人びとの記憶から自然と消え去り、だれも掘り起こそうとしなくなってしまったりして。わたしも、青柳さんの言うように、なんだか「土に埋める」という行為には、保存という目的を超えたべつの理由があるようにおもえる。

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