見かけなくなったものに、たばこ屋がある。
よく、近所のたばこ屋へおつかいに行った。
その店は2階建ての、古い瓦屋根の家の1階を店にしていて、赤い琺瑯看板にひらがなで書かれた「たばこ」の文字と、外に面したガラスのショーケースとカウンターが目印だった。カウンターの向こうでは、その店の店主でひとり暮らしをしているという丸眼鏡のおじいちゃんが、いつもテレビとラジオと新聞へいっぺんに勤しんでいた。
彼は耳が遠く、わたしはとっくに建てつけのわるくなった引き窓を背伸びしながらガタガタ開けて、たばこくださーい、と大声で呼ばなくてはならなかった。わたしに気がつくと、おじいちゃんは皺々の顔をもっと皺だらけにして、やっぱり建てつけのわるい引き戸を上手に開けて、中へ入れてくれたものだ。
玄関を入ってすぐの板の間にはちゃぶ台とテレビとラジオと読みかけの新聞が置かれていて、ちっとも鳴くところを見たことのない鳩時計が梁にかけてあった。部屋の中はたばこのスーッとしたにおいがした。
壁に備え付けられた棚にはいろいろなたばこの箱がぎっしり詰めこまれていて、週に1度は来ているのに、えーっとなんだっけか、と毎回忘れられるので、わたしは間違えないように気をつけながら、バージニアスリムライトだよ、と言う。
わたしはこのたばこの、おそらくはメンソールのにおいが好きだった。バージニアスリムライトとアイスコーヒーがなくては生きていかれない、そう母は言った。この店からは母の匂いがするし、母がたばこに火を点ければこの店の匂いがした。白地に緑の波模様がデザインされているしゅっとした形の箱も、さっぱりとした性格の母によく似合っていた。
吸っている人を見ると、とたんにそれらしく見えてくるのが不思議だ。わたしの好きなギタリストに、やはりマルボロがおそろしく似合う男のひとがいる。
デザインといえば、さいきんの、あるいはずっと前からの、パッケージにでかでかとプリントされた注意書きがわたしはどうも好きになれない。
わたしはもともと吸えない性質なので、やめられない人(母)の気持ちはもちろん測れないのだけれども、たとえば何か大きな研究の結果が発表されて、食パンのビニールに同じようなこと──糖質による肥満はあなたの寿命を縮めます、とか、健康のためには白米を推奨します、とか──が書かれる日がやってきたとしても、ぜったいわたしは食パンを買うとおもうし、そうなれば、パン屋で買いたい。
あのたばこ屋もなくなって10年経つけれど、知らない町でいい具合のたばこ屋を見つけると、なんとなく応援したい気持ちになる。