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2F/当番ノート

やがてそれも、化石になる(9)やがてそれも、化石になる

当番ノート 第52期

 あの、南蛮かぶれの堺の港町。
 路面電車で行くえべっさん、堺まつりと大魚夜市、ふとん太鼓に火縄銃隊の大パレード、それからザビエル公園。
 町を出て10年経っていても、たとえば秋のすずしい日に火縄銃の音で目を覚まし、窓を開ければつんと火薬の匂いがする、あの祭りの朝をとても鮮明に思い出すことができる。どこの町にいても同じことで、それがことしなら、乾いた午後の風がカーテンを揺らしただけのことだった。

 20代のころ、いい思い出、と称して引っかき傷のあるできごとを飲み屋で話す人がうらやましく、そして不憫だった。若かったからね、と照れ笑いするということは、わたしには困難で、途方もないことのようにおもえた。ほとんど、恥辱と言ってもいい。

 子どものころの、引っかき傷だらけの思い出を、長らくわたしは「忘れた」と言ってすごしてきた。そんな恥ずかしいことは話せない、とおもっていたし、できればなかったことにしたかった。けれども自分自身のことなので、捨てるにも、かといって肌身離さず持っていることにも困って、わたしはこれらを見ないことにした。それぞれの場所に穴を掘って埋めた、というのが正しい。そうして月日が流れて、思い出はみんな、孤独な化石になってしまった。

“思い出は美化される、というけれど、子どものころの記憶はそうはならないと思っている。いいことも、悪いことも、そのままの形で残っている。じっさい大人になると、都合というやっかいなものがあって、それによってドラマチックになったり、答え合わせに躍起になったり、結末が変わって(または用意されて)いたりする。

その点、子どものころの思い出の多くは、「さわらないでください」「おてをふれないでください」の張り紙とともに、孤独な化石になる。
あるいはベランダの隅で。あるいは庭の植木鉢の中で。あるいは箪笥の奥で。あるいは公園の砂場のバケツの底で。あるいは小さくなった服のポケットの内側で。あるいは一枚のフィルム写真の光で。折に触れて、そのままの姿で。
 ただし、そういう化石ができあがるまでには時間がかかる。それこそ、大人になるくらいの。”

 これは、この連載の第一回で書いたことだ。
 わたしはこのアパートメントで、母の恐竜図鑑を隠れて読み、ひとりぼっちで砂遊びをして、秘密基地をつくり、森にタイムカプセルを埋め、祖母のミックスジュースを飲み、ルースと呼ばれ、たった一匹の猫と別れ、たばこを買いに走った。

 30歳、掘り出してみればどれも、擦りきれず、わるくならず、きれいにそのままの姿で化石になっていた。そのうちの、ほんのいくつかを、わたしはここで書いた。
 わたしはよく笑い、泣き、怒る、さみしい子どもだった。今なら、なにに傷ついて、なにに腹を立て、なにを愛していたのか、というのがよくわかる。
 つたない字で書かれた「さわらないでください」「おてをふれないでください」の張り紙を見かけるたび、わたしはスコップ片手に駆け寄りたい。

───

二ヶ月間、ご拝読ありがとうございました。
おとなになっても、引っかき傷だらけです。
やがてそれも、化石になる。40代、50代のわたしが掘り起こしてくれますように。

青柳 ハルコ

青柳 ハルコ

青柳 ハルコ

1989年生まれ。
名古屋在住。文筆家。
雑貨と住居と海外ドラマとトーストが好き。

Reviewed by
冬日さつき

 おどろいたのは、いまでも多くの化石がじぶんの中に残っていたこと。青柳さんと同じように、わたしもひとつずつ掘り起こしていく作業を楽しんだ。おもえば、わたしは昔から「思い出して」ばかりいた。化石になるまえの鮮やかな記憶を無理やり取り出して、するどい感情とともに破壊しようとしたこともあった。じぶんにとって良いものだけを、残そうとしたのだった。

 青柳さんの掬いとるような感情の描写は、わたしにさまざまなことを思い出させてくれた。ほとんど忘れていたことや、あえて思い出そうとしなかったこと。そしてそれに付随する、そのときの気持ち。

 「化石になったもの」を掘り起こすとき、目の前に現れた化石とわたしのあいだには、時間というあきらかな距離がある。そのことにどこかわたしは安心していた。それらはそのままそこに在るだけなのだから。未来のわたしも、こんなふうに穏やかな気持ちで、化石を眺められるといい。

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