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2F/当番ノート

宇宙食は箸で食べる

当番ノート 第52期

あるとき宇宙空間が大爆発して、たくさんの小さな塵が浮遊した。
それが寄り集まって星がうまれ、やがてわたしたちがうまれた。

わたしの骨は宇宙の塵でできている、だからわたしの中には宇宙があり、
宇宙のなかにはわたしがある。

そうしてわたしは日本という国にうまれ育って毎日お米を食べている。

だからわたしの骨はお米でできている。

わたしが吐く息は、炊いたお米に含まれていた水蒸気なのだが、

死んで箸でつまみあげられるまで、それは内包され密やかにわたしを構成しているに過ぎない。




「釈迦入滅後、その骨は8つに分けられ、
10基のストゥーパが造られたのちに骨と灰土とを合わせて納められた。

その後アショーカ王はそれらのストゥーパを壊して、骨と灰土とを8万4000に細分化し、
各地に新たなストゥーパを建設したといわれているので、

もう、その骨はガンジス川の砂粒のごとく無数であり、
数えることもままなりません。」


これなんなん?

ひなちゃんが指差したその先にある、2ミリほどの白い砂粒のようなものはあたちゃんの歯だ。
わたしは、何を入れたらいいのかわからないくらい小さながま口に、まだほんの子犬だった頃、
初めて抜けたあたちゃんの乳歯を入れていた。

姪っ子のひなちゃんはそのがま口が気になって開けたようだ。

あたちゃんの歯やで、とわたしが言うと、
ひなちゃんはふうん、かわいいな、と言ってまたがま口を小さな指で閉じた。

あたちゃんの歯は、小学生の時にお土産でもらった星砂に似ていると思った。
わたしは星砂の入った小瓶を大切にしていた。
それが有孔虫の死骸だと聞いて、かわいそうだと思ったからだ。

小さな、小さなあたちゃんの歯。あたちゃんの歯を見るといつも涙が出た。






あんなにも大切にしていたのに、星砂の小瓶はもう今どこにあるのかわからない。

あたちゃんの小さな歯を入れていたがま口は、たぶん実家のどこかにあると思う。
でも、ないかもしれない。
遠く離れてしまって、もうよくわからない。

8万粒に砕け散ったシャリはどこに行ったんだろう。
大切に大切に祀られて、ずっとストゥーパの中にあるのだろうか。

ばあちゃんが死んで、火葬場の人が箸でサクサクと灰になった骨をかき分けて、
これが喉仏です、と示したものが小さな骨壺に納められた時も、
多分いつかなくなるんだろうと思っていた。
小包装された防虫剤の中身がいつの間にかなくなるみたいに、
いつかこの蓋を開けたら、多分もうなくなっているんじゃないかと思ってそれを見ていた。



わたしは多分、星砂も、あたちゃんの歯も、仏舎利も、
わたしが吐く息も、無数の仏も、
見えなくなったものはみんな同じように宇宙空間を漂っているのではないかと思う。

同じように見えなくなって、同じようにぷかぷかと漂って、同じようにわからなくなるんじゃないかと思った。

だから、宇宙ステーションでぷかぷかと浮かぶ宇宙食を、
宇宙飛行士が器用に箸でつまんで食べるのをテレビで見た時、
それはとても尊い行いのように思えた。




舎利と方円彩糸花網
陶磁器、金箔(レース制作:池田ひとみ)/2019

蟻と舎利
陶磁器、お手玉、藁など/2019




今後の予定
7月1日(水)より毎日、「碗琴道」のライブパフォーマンスを行います。 
詳細はこちらをご覧ください。

黄金町バザール2020-アーティストとコミュニティー Vol. 1参加作品 
http://koganecho.net/koganecho-bazaar-2020/news/2020/06/post-1.html
安部 寿紗

安部 寿紗

お米にまつわる作品を制作しています。​
2019年5月より黄金町アーティストインレジデンスにて活動しています。
2021年4月14日〜4月21日まで個展があります。http://www.pario-machida.com/topics/event/8982三度の飯くらいクリープハイプが大好きです。

Reviewed by
はしもと さゆり

バケツを並べ、水やりを欠かさなかった稲がようよう大きくなって、収穫。その穂から数千粒のお米を取り出して、その圧倒的な数の力に驚く。これは前回の話。次はそこから、どうにかして籾殻を剥き、見覚えのあるようなないような、白くて小さなお米粒がいよいよ姿を見せた。

舎利とは、サンスクリット語 śarīraの音写で、本来は「身体」の意。ときに死体や遺骨を意味するが、一般には釈尊(釈迦)の遺骨をいい、それを安置した塔を舎利塔(ストゥーパ)などと称する。また、形が似ていることから米つぶ、米飯を舎利という。(「ブリタニカ国際大百科事典」より。カッコ内は筆者加筆)

***


今年、義理の祖父が亡くなった。火葬場の係の人は、ザクザクと箸で潰しながら骨壷いっぱいにじいちゃんの骨を詰めた。最後は手ぼうきのようなものも使って、少しの塵も残しませんよ、という姿勢でそれを完了させたことは、私を少し安心させた。じいちゃんは、生きている人間の身体とはまた別の、長く留まれる形に変わって、しっかりとまるごと家に帰ってきた。そういう感じがあった。

生前のじいちゃんがずっと大切にしてきた集落のお墓は、家のすぐ近くにあって、49日後、私たちは文字通りの自分たちの手で、素手で、骨をお墓の中に納めた。お墓の中がぽっかり空洞なこと、下は土になっていて、お骨はいずれその土地に還ること、そのとき初めて知った。

***

「わたしは多分、星砂も、あたちゃんの歯も、仏舎利も、わたしが吐く息も、無数の仏も、見えなくなったものはみんな同じように宇宙空間を漂っているのではないかと思う」

安部さんの作品、陶磁器で作られたお米を見て、弔いの気持ちを浮かべる。私がお直しをしていて、お繕いのその無数の縫い目になんだか祈りのような、救われたような、そういう気持ちを抱くのと似ているかもしれない。無数のもの、見えなくなったもの、みんな宇宙空間を漂って、そういうものに見守られているのかもしれない。

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