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2F/当番ノート

お米絨毯

当番ノート 第52期

田んぼを遠くから見ると、その整然とした風景に圧巻されることがある。
緑の絨毯と例えられるその風景は、日本人の誇れるものの一つだろう。

田んぼを近くから見ると、一うね一うね、真っ直ぐに一糸乱れることなく植えられている。
田植機のない時代から日本人はまっすぐに苗を植えた。

糸をピンと張ってそれに沿って植えたり、木で作った農具を定規のようにあてて植えたり、工夫して美しく植えた。
雑草も一本たりとも許さなかった。

一本のひえを許すと来年には種が発芽して数百本に増えてしまう、米の生産が落ちることを恐れた。

日本人はどうしてこんなにも懸命に真っ直ぐに植えたのか。まるで何かに脅えているかのように・・・



真っ直ぐなうねだと田んぼに入って作業がしやすい、ということが一つある。
そうして雑草を抜いたり、稲の病気が蔓延しないように手を入れることができる。

また一説によると、土地の支配者が農民を土地に縛りつけ、米の生産量を上げる為に田んぼは大きな役割を果たしていたという。

曲がった畝は根性が曲がっているからだ、一本でもヒエを生やしたら駄農だと罵られ村八分にされてしまう。

つまり田んぼは農民の心を試す踏み絵であり、心を映す鏡であった。
田んぼは社会を統制する役割を持っていた。

田んぼにはご先祖様の汗と涙と血が滲んでいるだろう。
そんなことを考えると、足元に敷きつめられた絨毯は美しければ美しいほどに恐ろしく思えてきた。

逃れられない呪縛の中で懸命に生きる道を模索した結果、
日本人の心は辛いことや悲しいことを受け止めて、逃げることなく耐える強さ、つまり忍耐が芽生えたように思う。

その心は時として、一糸乱れぬ足並みで戦争に向かわせる。


わたしはふと疑問に思った「どうしてこんなにも一列一列真っ直ぐに植えるのだろうか」ということを調べ、知れば知るほどとても息苦しいことのように思えてきた。
 たしかにうねが真っ直ぐであれば田んぼに入り、作業しやすいことは間違いはない。
(そして農業が機械化されてからは田植え機を使うので真っ直ぐ均等に植えられるのはそりゃそうだろうと思う)
 歴史的に見て田んぼが社会的役割を果たしていたこともそうだろうと思う。 

けれどそれは俯瞰で見た田んぼである。 実際に田んぼで感じるものとはズレがあるように思えた。 

そんな時、偶然展示を見てくれた名前も知らないおじさんがこんなことを言った。

「ぼくは、うねは風の通る道だと思う」

ハッとした。それは、稲の気持ちに寄り添った言葉だった。 

田植えの時、足の裏に感じるあの気持ちいい感触も、朝早く田んぼに注がれる冷たい水も、日当たりのいい山の斜面につくられた棚田も、あぜに咲く彼岸花も、一列一列真っ直ぐに植えられた畝も、

ぜんぶ稲のためなのである。 田んぼは稲の育つ場所である。稲が心地よくあるために、すべてはそうなるようにしてなっているんだと、稲の視点から田んぼが見えてくる言葉だった。 

そうして時に、うねはまっすぐでなくてもいいのだ。 

「曲がった植え方であっても、稲はまっすぐ育つ」 素人のわたしがへたくそに植えた苗もちゃんと育つと、農家の方が かけてくれた優しい言葉。

田んぼは優しい思いが通い合う場所でもある。


お米絨毯
樹脂粘土、布/2008



追記。
2008年に「お米絨毯」という作品を制作し、その展示で出会ったおじさんの言葉から、2009年に「うね〜風の通る道~」という作品を制作、
その後出会った大分県の農家の方が所有する棚田の一つに丸い形状の小さな田圃があり、なぜか真っ直ぐ植えなくてもいいんじゃん、丸く植えたい、と考えたところ、「かずちゃんの好きにしたらいい」と快く田んぼを使わせていただけることとなり、わたしは2012年に大分県に移住、田んぼにぐるぐると円を描きながら黒米の苗を植えた。
結果、稲が真っ白に枯れてしまい、ほとんど実らなかった。風が通り抜ける道がなく、病気が蔓延してしまったのだ。
やはり、一列一列が真っ直ぐに植えられていることは重要であった、と身をもって実感した。


今後の予定
7月1日(水)より毎日、「碗琴道」のライブパフォーマンスを行います。 
詳細はこちらをご覧ください。

黄金町バザール2020-アーティストとコミュニティー Vol. 1参加作品 
http://koganecho.net/koganecho-bazaar-2020/news/2020/06/post-1.html


安部 寿紗

安部 寿紗

お米にまつわる作品を制作しています。​
2019年5月より黄金町アーティストインレジデンスにて活動しています。
2021年4月14日〜4月21日まで個展があります。http://www.pario-machida.com/topics/event/8982三度の飯くらいクリープハイプが大好きです。

Reviewed by
はしもと さゆり

今回登場する「お米の絨毯」という作品は、どこかのとても立場あるお方に献上された反物みたいだなあと思いながら拝見した。私の好きな、白地に白の刺繍を思い浮かべる。刺繍、すなわち、ひと針ひと針の人の手の営みの結晶。私のような小市民が刺繍のたくさん施された布や洋服を見ると、どこかのベテラン職人の、どこか外国の女性たちの、時間と労働力をこんなに集約したものを身に纏ったりしていいのかと、惹かれるけど圧倒されて、作り手と使い手の距離の遠さが気がかりになったりしてしまう。

また自分の家族の話になるが、昨日ちょうど、母の衣装合わせに同行した。今月末に控えた一人息子の結婚式のため、留袖を準備する。「ご予算はどんな感じでしょうか。お相手の方とあんまり違ってもいけませんね」と、あまり算段なくやって来た私たちに対して、式場の方がさっさと道筋を立てた。「新婦のお母様は、刺繍の着物をお選びでした」の一言で、こちらも刺繍が多く施されているものを選ぶ。「新郎のお母様というお立場」なので、帯もビシッと金糸の刺繍キラッキラの、オプションかつ一番高いものを。母は何度も何度も「新郎のお母様」と呼ばれ、その「お立場」を表現するための衣装を選ばされる。自身の好みや希望を聞かれることは遂になかった。「オタチバ」という聞きなれない言葉に驚き、男性社会の話か…と飛躍し、なるほど道理で心配性の母が自前の留袖をやめて式場でレンタルしたいと言いだした訳だ、と軽く納得した。

「つまり留袖は新郎の母の心を試す踏み絵であり、心を映す鏡であった。」

田植機の発達した稲作のように、心を示すのに数十万円のお金と一度の衣装合わせで事足りる、貸衣装屋さんの発達した現代に生まれてよかった。のかどうかはわからない。

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