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2F/当番ノート

ポラリスとウメボシ★

当番ノート 第52期

前回の当番ノートで書かせて頂いた「お米もじルンタ」の続きです。

158枚の五色の旗の中に「馬」と「星」がいるので、是非探してみて欲しいです。
馬はルンタ、風の馬、星はポラリスです。



なぜ、風の馬とポラリスが登場するかについては、吉田勘兵衛さんの故郷であり、
わたしの故郷兵庫県川西市に隣接する大阪府能勢町が関係します。

吉田勘兵衛さんは京都府亀岡の本梅(ほんめ)にて生まれ、
その後間もなく現在の大阪府豊能郡能勢町に移住しました。

大阪のてっぺん、と呼ばれる能勢町は兵庫県川西市との県境に妙見山があります。

妙見山には古くから妙見信仰と呼ばれる、妙見、
すなわち北極星を神格化した妙見菩薩を祀る日蓮宗のお寺があります。

また、妙見山にはたくさんの馬の像があります。馬と仏教に関することは前回も少し書いたのですが、
妙見山では北極星を守護する北斗七星と輔星の八つの星を表す八頭の馬の像が配置されています。

そして、吉田勘兵衛さんは熱心な妙見信仰者だったと言われています。

わたしは大阪で生まれ、2歳の時に兵庫県川西市に移住しました。
山並み遙か妙見の夕空晴れて峰高く、という小学校の校歌の歌詞を今でもよく覚えています。
校歌にも歌われている「妙見山」は幼い頃から何度も何度も登った山です。

高校を卒業した後、妙見山を登るケーブルの乗務員のアルバイトをしていた時期もありました。

わたしが実家の庭にバケツを並べて稲を育てていたその年、
能勢町にある長谷の棚田で行われていた棚田オーナー制度に参加して、
定期的に通っていました。

田舎に住んだことのある人なら共感すると思うのですが、
能勢に車なしで通うのはなかなかのことです。

能勢電鉄に乗って、バスに乗り継いで、バスを降りて40分くらい歩いて棚田に行っていました。
(時々棚田のおっちゃんが軽トラで迎えにきてくれました)

以後住んだ場所も田舎が多かったにも関わらず、未だに車を運転できません。

この、長谷の棚田は戦国時代に造られた、石組みの給排水設備のある独特の石組みの棚田でした。

わたしは、横浜で吉田勘兵衛さんのことを知り、勘兵衛さんが能勢町出身だと知った時に、
この長谷の棚田のことを思い出しました。

吉田新田を開発する際、潮避堤の石組みや排水設備を築く際に、
勘兵衛さんは長谷の棚田のことを思い出していたのではないだろうか?
と思っていました。

また、能勢町には「清正公堂」があり、清正公とは戦国武将加藤清正公のことですが、
領土内の土木、治水工事に力を注いだことから「土木の神様」として信仰されるようになったそうで、
全国的に清正公信仰はあるようです。この清正公堂は、勘兵衛さんの邸宅跡にも建立されました。

点と点を結ぶように、勘兵衛さんを通して、
わたしの見た能勢と横浜が繋がっていくようでした。

そんなわけで、(てもうどんなわけやねん、という感じですが)
わたしは158枚の旗の中に妙見山に思いを馳せながら一枚、ポラリス(北極星)を描きました。

しかししかし、最終的にもう一つ星が増えました。

お米もじは書き損じると訂正印「梅干し」を押すのですが、
一枚間違えてしまったので、「梅干し(うめぼし)が一枚加わり、
結果159枚となりました。

そして重陽の節句に無事、設営が完了しました。

お近くにお越しの際は是非、
大岡川上空をはためく「お米もじルンタ」をご覧ください!

参考リンク 能勢妙見山

お米もじルンタ
布、墨
2020


今後の予定
「黄金町バザール2020-アーティストとコミュニティ 第一部」に参加しています。
参加作品は「お米もじルンタ」(設置場所:大岡川上空)と、
7月1日(水)より毎日行なっている「碗琴道」のinstagramライブ配信で参加しています。
詳細はこちらをご覧ください。

黄金町バザール2020-アーティストとコミュニティー
http://koganecho.net/koganecho-bazaar-2020/
安部 寿紗

安部 寿紗

お米にまつわる作品を制作しています。​
2019年5月より黄金町アーティストインレジデンスにて活動しています。
2021年4月14日〜4月21日まで個展があります。http://www.pario-machida.com/topics/event/8982三度の飯くらいクリープハイプが大好きです。

Reviewed by
はしもと さゆり

実は私も、妙見にはゆかりがある。

私が生まれ育ったのは、能勢の少し南の大阪北摂エリアだが、私にとって「妙見」とは、「妙見夜行登山」の略称だ。
母校の府立茨木高校では、学校から妙見山山頂(往復約50km)を夜通し歩くという変わった行事があった。出発は金曜日の授業終わりの夕方16時ごろで到着は朝の8時半ごろ。しかも真冬の2月頭に開催される過酷な行事にも関わらず、任意の参加はとても人気で、クラスのほぼほぼ8、9割の人が参加していたように記憶している(あいまい)

私はこの妙見夜行登山が大好きで2年連続参加してるし、その後進学した大学でも似たような「早稲田本庄100キロハイク」という、こちらは埼玉県本庄から東京新宿の100キロ(噂には135キロ)のルートを2日かけて歩く行事に3年連続参加している。他に何もすることがない、ただただ歩くだけという過酷で贅沢な時間。また、歩きたいなあ。

ちなみに、恩田陸の小説「夜のピクニック」も同じくある高校の夜間歩行をモチーフにした作品だが、同作の映画版を見たときの感想は、「こんなにちんたら歩いてたら到底到着せんわな・・・」というもので、実際はもっと必死にそして後半は眠さで朦朧としながら歩いた思い出。その起こりは、大正14年、旧制中学時代の軍事訓練の名残だとだけ伝え聞いていたように思うが、なんで妙見山なんだろう、近くの山だからかな、というぐらいの認識だった。

が、今回の安部さんの記述を読んで、母校にもその昔、吉田勘兵衛さんと同じ妙見信者がいたのではと思い至った。妙見とは、北極星を神格化した妙見菩薩のことだったのかと知った。私の中の過去の記憶と安部さんの作品、点と点がつながったような気になった。星だけに・・・

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