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2F/当番ノート

話すこと

当番ノート 第52期

話がうまくないから、人と話すのが嫌だ。とても筋が通っているように思う。一見すれば、だけれど。でも、私の行動としては話しかけに行ってしまう。話がうまくないのに。自分では、馬鹿だなあと思う。できないことをやっても意味がないのに、どうして人と話そうとするんだろう。

人と話して、笑顔を浮かべていると、「私」が私を遠くから見ている気分になる。今、無理して笑っているなとわかる。無理して笑っているから、頬の筋肉も何となくいつもより疲れる。そもそも、私は人前で心から笑うことの方が少ない。笑っておけば、うまくいくよね、適当に笑っておこう、みたいなことばかり考えて、心からの感情を見せられる友人は片手の指で足りるほどだ。

多分だけど、私は二人いるのだ。話すのがうまくないから黙っておこうとする賢い私と、話したいから話そうとする馬鹿な私。話すのがうまくないのだから、書くことに専念すればいいのに、馬鹿だなあと思ってしまっても、二人目の私をうまく止めきれない私がいる。

話すのが下手なのに、何で話したいのだろうか。他のことなら、うまくないのにやろうとは思わない。例えば私は音楽がわからない。音楽がわからないのにピアノをやろうとか考えない。できないことはやるべきじゃないから、できそうなことばかりやってきた。で、話すことはできそうかというと、全然できそうにない。

ところが、人を「本」に見立てるヒューマンライブラリーというイベントで、本として話したことはある。話がうまくない自分がそこに行ってもいいものか、と最初は悩みもしたけど、行ってみたら案外楽しかった。自分に興味を持って、話を聞いて、理解を深めようとしてくれる人達との対話は楽しめる。私のことを知りたいと思う真摯な気持ちは本当にありがたいものだ。

そこでは、話すことに意味があると思えた。私が話すことで、理解ある人達が増える。「こういう人がいるんだ」と知ってもらえる。それは少しずつだけど私を含めたマイノリティを生きやすくしている。そのためなら、苦手だけど話すことを頑張ってもいいかなと思えた。

それでも、話していて、書いていたらきっともっとうまく書けるのになという気持ちが止まらない。話すのがうまくない。口が回らなくなってしまうのだ。思考の3割くらいのものしかアウトプットできていない。友達にはそんなことないよと言われるが、そんな風にはとても思えない。

それでも、人に話しかけに行ってしまう。好きな人には特にだ。うまくないのに何でそうなんだろうなあと呆れることもある。好きな人とは、話したいものなのだ。話したいから、うまくなくてもいいかなあとも最近思うようになってきた。話すのがうまくない私の話を聞いてくれる人は確実にいる。その人を見つける旅に出るというのも悪くない。

雁屋優

雁屋優

文章を書いて息をしています。この梅の花を撮影したときの私は、ライターをやることを具体的に想像してはいなかった。そういうことに、惹かれる人。

Reviewed by
藤坂鹿

書き言葉は文字に残り、話し言葉は声のなかにしか残らない。声は発したそのすぐあとには消えてしまうけれど、声に乗って放たれた言葉にはたましいが宿っている。それは、書き言葉の放つ光とはすこしちがう色の光を放っている。
個人的な考えだけれど、話し言葉がつたない人は、どこか信頼できる気がしている。つたない、というのは、いい加減にしているということではなく、むしろ、言葉を大切にしているがゆえに、つっかえつっかえ話すような、そういう人の放つ言葉は信頼できると思う。わたしは雁屋さんが話すところを聞いたことがないけれど、たぶん、雁屋さんが話しているのを聞いたら、あ、この人の話す言葉は信じてみたい、と思う気がする。

話すという行為は、一瞬の時間のなかに起こり瞬時に消えていくものである。だからこそ、そこに宿された言葉には、その人のたましいの高貴さがにじむのではなかろうか。ほんの一瞬、けれどその、意識を払う暇もないほどの一瞬には、話し手が映し出されている。そこにためらいがあるといい。逡巡があると、なおいい。その人のことを、もっと知りたくなってくる。

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