一人で生きたいということは、一人で死にたいとも言い換えられるのかもしれない。そんなことを思うようになった。当たり前かもしれない。一人で生きた人は死ぬときも一人なのだろうから。
一人で生きたいと言い始めたのは、結構小さな頃からだった。家族が嫌いだったし、家族に予定を左右されることが大嫌いだった。皆でどこかへ出かけることについても、基本的に面倒くささが勝った。小さい頃は今よりも車酔いがひどく、遠出すれば必ずと言っていいほど、吐いていた。吐いてまで出かけたい場所なんて、私にはなかった。吐いてしまうし、本当は家で本を読んでいたいのに、それを我慢してまで行きたい場所なんか、なかった。おいしいものは食べさせてもらったし、いろんな経験もさせてもらえたので、それらは無意味ではないと思うが、私のためを思うなら、もっと解放してほしかった。
解放。私にとって一人で生きるとはいろんなことからの解放なのだ。今まで私を縛りつけてきたものからの解放。
私は有言実行の人間なので、この夏、一人暮らしを取り戻した。一人暮らしを取り戻すとすぐに、朝起きるのが楽になり、心が弾んでいるのを感じる。
誰かの都合に合わせるのが嫌いなので、誰かと生きたいと思ったことがない。それを言うと、「いずれわかるよ」みたいな生温かい目で見られるのも嫌だ。人間は必ず誰かと生きていかなくてはならないのだろうか。広義の意味ではそうかもしれないけれど、いつか必ず誰かと暮らすのを強制されるのだったら、私はそんなのは嫌だと思う。誰かと暮らすくらいなら、死んでしまいたいとまで思うときもある。
「一人暮らしは大変だよ」とも「一人で生きるのは大変だよ」とも何度も言われてきた。でも、やってみたら幸せの方が勝った。今私生きている。誰にも邪魔されずに幸せを味わっている。風を浴びるたびに幸せを感じる。この状態のままある日明日が来なくなるなら、それはそれで幸せだ。
好きなものだけに囲まれて、ふわふわと生きて、安らかに死んでいきたい。夢物語と笑うだろうか。
東野圭吾氏の小説『赤い指』において、主人公の加賀刑事と彼の父はある約束を交わし、それを完遂する。結末に触れるので詳しくは書かないが、どう生きたかでどう死ぬのか決まってくるというのは本当だと思った。私は、看取ってくれる人のいない死に方をするのだろうなと予感めいたことを思っている。因果応報かもしれない。でも、死ぬ瞬間のために生きている今したいようにふるまえないならそれこそ生への冒涜だと思うのだ。
友人はいるけど、彼女達ともある程度の距離を取りたくて、家族は作るつもりもあるものを大事にするつもりもない。自由と引き換えに孤独死のリスクを高めているのかもしれない。とてもわがままだけど、私は私が死んだ後のことなんかどうだっていいから、生きている時に楽しければそれでいいかなと思う。勿論、孤独死に関しては社会のシステムがこのままでいいわけがないことも付け加えておく。心臓が止まったら然るべきところに通報してくれるシステムがあればだいたい解決するんじゃないかな。絆とかそんなあやふやなものに頼るんじゃなくてさ。