昔から、多数決なるものが嫌いだった。いつも自分が負けていたからかもしれない。何を提案しても、私の提案は通らない。何も、おもしろくなかった。それに、最初から反対していたことが多数決で決まって実行され、失敗すると、集団として自分もその責任を取らされるのが嫌だったのかもしれない。最初から、私は失敗するとわかっていたから反対したのに、みたいな感じ。
多分、自分のしたことで一人失敗して詰むなら納得いくんだ。強いられたものの責任を取らされるのだけは、納得いかない。
世のなかにはどうしても、数の少ない人たちがいる。男と女、なら半分ずつくらい数はいるかもしれないけど、どうしても少ない側ってぞんざいに扱われがちだ。多数決ってしくみは、その最たるものだと思う。
勿論、多数決っていうのは、議論を深めたあとにされるものだ。そういうことに、なっている。でも、実際はどうだろうか。議論も何もなく、はい多数決、多数派の勝ち、で少数派を殺していないだろうか。いや、殺していると思う。
じゃあ多数決じゃなくて何だったら納得するんだと問われれば、優秀で常に価値観をアップデートし続けるAIの支配とかが思い浮かんでしまう。危ういな。AI様の支配下に置かれるの、人類には実際快感なのかもしれない。難しいこと、何も考えなくていいもんね。それこそ、多数決に殺されている少数派の話とか。
多数決に殺された声たちを救い上げようとして、人間の尊厳を殺すしくみを考えたんじゃ意味がない気もするけどね。
多数派になれないなら、自分事じゃないことに関心をもってくれる人を増やさなければならない。現状、それしかやりようがない。
でもどうやって?
他人の抱える問題が自分の人生と地続きだと知らせるのは実はかなり困難だ。例えばアルビノの話をすると、アルビノに興味のある人が聞きに来てくれる。興味のない人は来ない。当たり前だ。トピックに興味があるから来るのだ。トピックに興味のない人に届かせるのは難しい。別の切り口を探して、そこから知ってもらう必要がある。
例えば、好きな文筆家がアルビノ、とか……? 私の文章からアルビノを知ってくれた方もいるから、その方向性は間違っていないのかな。いい文章を書けるように頑張ります。