6歳の娘がわたしの写真を撮っている。
わたしが、じゃない。娘が、だ。
「自分の外側」を、いつも鏡で見ている。
似顔絵にするには特徴の無いこの顔と32年間付き合ってきた。
正直言うと飽きもある。最近は加工可能なカメラアプリが主流になっていて、顔の形や瞳の色まで自由に変えられる。
どうやら人々はみんな、「どれが真実の自分か」に重きをおかなくなったようだ。
だから娘が突然自宅にあるカメラを持って「これどうやって使うの?」と尋ねてきた時は驚いた。
仕事で取材が絡む時にしか使わない、小さいけど重いカメラ。インタビューの仕事を離れてからの数ヶ月はインテリアと化していた。
「何を撮るん?」
「ママ」
嘘でしょ。マジやめて。化粧してないし今変な服だし。そう言いながらしぶしぶ一枚。
カシャッと音がして「わたしの外側」が切り取られた。
それは残酷な現実を焼きつけていた。
やっぱり20代の頃に比べて肌はくすんでるし顔も一回り大きくなった。いつの間に出現した小さなホクロや吹き出物も容赦なく、ほんとうに容赦なく映し出している。
けれどその表情は私が知っている自分とはまるで違っていた。
娘から見たわたしはこんなふうなんだろう。
わたしは、自分の母親が32歳だった頃の顔を覚えていない。
だからきっと娘も忘れてしまうんだろう。今の私を。
わたしはずっと、美しくなりたかった。
美しい人がうらやましかった。美しくあることが女性の「正しさ」だと思っていた。
けれど母親になった途端、沖に沖にと流されるように「正しさ」が遠のいていった。
ぱさぱさの髪の毛をいつも一つに結って、何年も前に買ったユニクロのズボンを履いて、でもまるでそれが「良いお母さんだね」と、新しい「正しさ」みたいに評価された。
カメラのレンズはいつも子供に向いていた。ネットショッピングの注文履歴も、子供服がずらっと並んだ。
100、110、120と数を重ねていくサイズと同じスピードで、年を取った。
あっという間だ。気づいたら6年経っていて、その間の自分の姿をほとんど覚えてない。
だからきっと娘も忘れてしまうんだろう。今の私を。
「ママ、撮ってあげる」
お願い。あなたが今見ている「わたしの外側」を、忘れないで。
*
2020年、大好きなWebメディア「アパートメント」に入居する運びとなりました。
10月、11月期の当番ノートを担当します。
決まってから今までの3ヶ月、冷めないカイロみたいにぽかぽかした嬉しさがずっと持続しています。
木曜日のこの部屋では週に1度、娘が撮ってくれた写真を載せて「わたしの外側」を記録しようと思います。
併せて、娘に伝えたい「わたしの内側」を文章にして綴っていこうと思います。
お付き合いくださると嬉しいです。
これはわたしがわたしを知るための試みです。
そして、抱きしめるとも肌を撫でるとも違う、ちょっと変わった愛し方です。