今回は、私が一番好きなカレー屋について語ろうと思う。
私が通っていた大学は神保町付近にあった。神保町は、日本有数の古書店街であり、あらゆるカレーの名店が軒を連ねる街だ。どこか目的地のために歩いていれば、きっとそこに向かう途中で2軒くらいはカレー屋を発見するだろう。
当時、私は文学部で、軽音サークルに所属していた。カレー好きが多くなりがちなコミュニティに、それに十二分に応える立地。私の大学生活は瞬く間に黄ばんでいった。
大学を卒業してから、カレーを偏愛している人って意外と少ないのかもしれない?とカルチャーショックを受けるほど、生活はカレーと隣り合わせにあった。なお、違う大学出身の友人は、私とその学生時代の一部の友人を「カレーに人生を狂わされた人たち」と評する。
学生時代から現在に至るまで、私の中での不動の位置にいるのは、キッチン南海神保町店である。看板メニューはカツカレーだが、コロッケやチキンカツなどのフライ、豚の生姜焼き等も絶品の洋食屋である。
私は、だいたいの場合はカツカレーを注文している。漆黒のルーは白い皿に広がり、蛍光灯が白く湖面に映りこむ。薄めのさくさくのカツはその半身をルーに、半身をごはんに預けている。湯気が立ち上る熱々のルーを火傷を恐れず頬張ると、スパイスの芳醇な香りと深く煎られながらも軽い舌触りに心を囚われ、しかと炒められた玉ねぎの甘みに気付く。揚げたてのカツをすくってルーと食べたりご飯と合わせたりして、ひとすくい毎に幸福感が立ち上ってくる。
威勢がいいボリュームで、次の食事がいらないくらいに満腹になれて、一皿750円。学生にも食いしん坊にも優しい。
店内は、ピークタイムを外してもいつも7割は席が埋まるほどの盛況ぶりであった。
調理スタッフは、大きな業務用フライヤーでじゃわーっと軽快な音を響かせてフライにからりと油を通し、皿にこんもりと白米とキャベツを盛り、もうもうと湯気を立てるルーをどっとかける。
ホールスタッフは、次から次へと訪れる客を案内しオーダーを取り、配膳、そして会計(昔は伝票が無く、完全に客の自己申告だった)、片付けを順不同に捌き続ける。
客はというと、皆寡黙に眼前の料理に向き合い、ひとさじひとさじ活力を咀嚼し、胃へと送る。そして「カツカレー、あと生卵」と申告し、用意しておいた小銭を渡し、さっと店を出る。そしてまた次のお客が入る。
淡々と繰り返される食堂のリズム。個々人の決められた所作は美しく、かつ大きな活気となっている。
味は勿論だが、各人の確かな営みを体感できてなんだかぼうっと眺めているだけでも「人間っていいな」なんて穏やかな気持ちになることも好きな理由のひとつだ。学生時代は授業の合間に一人で、バンド練終わりに皆で、社会人になって神保町を離れてからもことあるごとに来ていた。会社の飲み会が途中でふと面倒になり抜け出し、一人でカツカレーを食べていたこともある。これは社会的とは言えない行為なのであまりおすすめしない。
そんなパワースポットであるキッチン南海神保町店だが、今年6月に、建物老朽化のため60年の歴史に幕を下ろすことになった。
長く働いていた料理長が近隣に新店舗を構えることになっているため、幸いにも伝統の味は寸分違わず新店舗で再現されるが、通い慣れた場所が無くなってしまうことを惜しむ人々により、連日行列ができていた。
私もひとつの故郷を失ったような衝撃を受けたが、老朽化といわれれば仕方ない。
当たり前のことだが、形あるものは無くなる。人間もその例に漏れず、いつかは死ぬ。
しかし、形のないものは無くならないのだ。料理はそのレシピが人から人へ渡され、作られ続けることによって、人や物の寿命をはるばると飛び越えて生き続ける。仮に非常事態で空白が生じてしまっても、ふと記憶や文書が出てきたら、その当時の料理がそっくりそのまま生き返ることもある。事実、二千年前のインド料理を研究から再現した書すらあるくらいだ。
日本的に広義にスパイス料理全般を「カレー」と呼んでみる。
カレーを作る人間がいる限り、カレーは存在し続ける。それは夢と希望に溢れている事実だ。
しかし、裏を返せば、果たして人間がカレーを作っているのか、それとも人間がカレーを作らされているのか分からなくなるときがたまにある。家で一人カレーを作り続けているとき、ただの私の性格上の問題も大いにあるが、体力と材料の限りやり続けてしまうこともある。カレーは人間を利用して、時代を超えて増殖しているのかもしれないというのは馬鹿らしい妄想である。だが、これを完全に否定できる根拠もないのだ。
私はキッチン南海神保町店の最終営業日に2時間半ほど並びながら、私もまた、カレーの乗り物でしかないのかもしれないと考えた。そしてこの行列のなかの人たちもそうなのかもしれない。その大いなる流れに甘んじて身を任せ、伝統への敬意を忘れず、いまカレーを食べていこう。