年が明けて一週間以上が過ぎた。
正月ぼけと重厚な憂鬱は最初のうちだけで、瑣末な事柄を一つずつ対応していくうちに、休暇なんてながい夢だったのではないかと感じるくらい、するりと体が日常に戻っていった。
しかし、冷蔵庫を開けると、休暇が現実であった証拠がじっと佇んでいる。正月の名残の様々な食材。人間は時の流れに添えたが、冷蔵庫がついてきていない。これを片付けることが私の年始の課題であった。
中途半端に余っていたラサム(南インドで見られる、トマトのスパイシーなスープ)に、余っていた椎茸と鰹の出汁を足して加熱し始めた。
インド料理では基本的に出汁は用いない。しかし、南インド料理との共通点が多いスリランカ料理では、モルジブフィッシュという荒削り鰹節のようなものを使う。そのため、南インドの地方の料理には、出汁を混ぜても違和感が無いものはけっこうあるのだ。
ラサムが煮立ったと同時に、餅がふっくらと焼けた。その余熱で、余っていたパコーラー(インドのフリット)を温め、すべてあわせて椀に盛る。ラサム雑煮だ。
ぐっと辛かったラサムは出汁で希釈されてまったりした味わいになり、椎茸の香りと調和した。
もちは、荒く挽いたブラックペッパーを表面に纏わりつかせ、一口毎に異なる辛さとなる。コントラストがありよかったな、とインド料理の懐の広さに感謝した。
その後日。スーパーを徘徊していると、ふと「春の七草セット」が目に入った。
七草粥。正月のご馳走で疲れた胃を休め、春の七草を食べて無病息災を祈るという伝統行事である。
ラサム雑煮がうまくいき調子に乗っている私は、これでインド料理の粥、キチュリーを作ることにした。
キチュリーは、インドでは養生食かつ常食で、米と豆をターメリックと共にとろとろに煮て、スパイスの香りを移した油をかけたものだ。米・豆と共に、刻んだ野菜を入れて煮ることもある。ヨーグルトや、野菜のカレー、チャトニなどと共に食べられる。
日本で、カレーに合わせる米といえば、硬めに炊いたものが多い。インド料理のレストランでも、バスマティライス(南インドでよく食べられる長粒米)はぱらぱらかふわふわに炊かれているし、ターメリックライスも固めで、粥の遭遇率は低い。
一抹の不安があるかもしれないが、優しい味でとてもおいしい。そしてなんと言ってもヘルシーだ。一膳分の半分程度の米と、そのさらに半分程度の豆で十分に満足できる。消化にもいい。その分早くお腹がすいてしまうという困った面はあるが。はまって毎食キチュリーだった時期もある。会社のレンジで、注意深く水を足しながら、黄色いどろどろしていたものを温めていた私は、周囲にどのように見られていたのだろう。
七草セットを開けて中身を確かめる。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。見慣れない葉を取り出し、すべてみじん切りにしておく。
かぶは煮溶けそうなので、葉だけをキチュリーに入れ、本体は蒸してヨーグルトとあえることにした。さらに、冷蔵庫に残っていた里芋で汁気があるタイプのカレーも作る。
ムーングダルと米をターメリックとともに火にかけておくと、いい香りが立ち上ってきた。豆が煮える香りは、懐かしいような、ほっとするような香りだ。数え切れないくらい豆を炊いているが、そのたびに何か大いなるものに包まれるような癒しを得る。同じ豆類である味噌汁に通じるような、日本人の心を遺伝子レベルでくすぐるものがあるのだろうか。
仕上げに七草を入れて軽く煮て、別のフライパンでギー(精製したバター)を温め、クミンと生姜と大蒜を炒めて香りを出し、じゃーっとかける。
ついでに冷蔵庫にあった香菜を飾り、七草粥ならぬ八草キチュリーとなった。
くせが無い七草たちが豆と米に溶け込み、少しアクセントになって楽しい。実際のところ葉物のなかでは香菜が一番存在感を主張しているが、まあいいだろう。ギーのほのかに甘い香りも調和している。
一口毎に、無病息災を祈りながら大事に食べた。
普段の食事よりも心なしか大事に食べた。
なんと言っても七草パックは縁起物なので、葉物にしてはなかなかいいお値段だったのである。
実は、内容物の半分くらいはそこらへんに生えているのを確認したが、安全性への自信が無く、採取を断念したのであった。小心者だが大人の対応である。できないものはできない。来年こそは野草の知識をつけて採取して、安い粥をつくるぞと決意を新たにした。
正統なインド料理をひとそろい作り、インドの伝統食やその文化、宗教への理解を深めることは、純粋にすごく楽しい行為だ。
しかし実際、私は国籍も現住所も日本で、無宗教だ。バックグラウンドもインドと関係が無い。
外国人だからこそ、何にも囚われることなく、インド料理を広げて考えることもできる、とも言える。
神にも周囲の人にも怒られることはないのだから、自分なりの新たなインド料理に挑戦してみたい。
インド料理は学びつくせないほどに広く深いが、私の日常のなかのひとコマでもある。自在に操るために、伝統的な手法の意味を学ぶ日々は続く。