先日、巨大な一本のタコ足を入手した。茹でて冷凍されて東北から東京まで運ばれてきたそれは、私の肘から指までと同じくらいの長さがあり、重量は約1キロ。吸盤なんてペットボトルの蓋くらいの大きさのものもある。足一本だけでこんなに大きいのだから、全長はどれほど巨大だったのだろう。人間の頭部を丸々と包んで窒息させられるくらいはあったのだろうか。
海の底で、巨大な無脊椎動物がじっと身を潜め、獲物を捕らえ日々の糧としている様子を想像する。どこぞのオカルトのコラ画像や、映画や、深海生物の写真集のカットが取り留めもなく脳裏に浮かび上がる。しかし、実際に海で巨大な生物に遭遇したことが無いため、それら二次元のイメージは説得力を持たずに霧散し、最終的にただ闇が滔々と広がる海底の画に落ち着いた。結局どうしようもなく謎だ、という茫漠とした恐怖に包まれる。
だが、眼前には、海の謎の断片がたしかに横たわっている。自身に降りかかっていない謎を、無闇に恐れることはない。この巨大生物が死んでいるというのは事実だ。きっと数多の人間のはたらきにより捕獲され、食糧となって我が家に来てくれたのだ。タコ漁の歴史のなかには、不遇の運命を遂げた漁師もいるのかもしれない。そもそも、タコを初めて目にし食べてみようと思った人間も胆力がある。タコに関わった人間の知見に敬意を示し、私もできうる限りの誠意で応えたく、ビリヤニにすることをした。
ビリヤニは、インドのスパイス炊き込みご飯/混ぜご飯である。もとは中東のプロフやポロ等の米料理をベースに、ムガル帝国の宮廷料理として作られ、インド国内に発展していったものと言われている(これには諸説ある) 。チキンやマトンを用いるものが特によく知られているが、各地方や宗教的制約で無数のバリエーションがあり、ベジタリアンは野菜やチーズを使ったり、海が近い街ではエビや魚類を使ったりする。日本のレストランでは、現地風のオーセンティックなビリヤニもあれば、和風炊き込みご飯になるような食材をインドの解釈でビリヤニにすることもあり、食に宗教的タブーが無い土壌と結びついて自由な文化が花開いている。
今回は、南インドの魚介のビリヤニを参考にし、タコの身を大きめにカットして、硬く炊いた米と合わせることにした。炊き上がると、タコの出汁とフェンネルやミントの爽やかさが絶妙にマッチしなかなか美味であった。しかし、肝心のタコは硬く、大ぶりにカットしたことが裏目に出ていた。タコの下処理はインド風に、ターメリックとレモンをまぶしただけだったのが安易だった。インドに於いてタコを食べるのはメジャーでないため、当たり前だがインドの手法を採用してはならない。反省し、タコを柔らかく加熱する方法を探し、ひとしきりインターネットの海を彷徨う。ポルトガルやギリシャ等、タコを多用する文化圏の情報では、「生の状態で冷凍と解凍を繰り返し筋肉を壊す」「生の状態で机にたたきつける」などのハードな意見が出てくる。死んでるとは言えタコからするとたまったもんじゃないだろう。
今度生のタコに遭遇したら完膚なきまでに叩きまくってやろう、と決意を新たに、タコの処理の反省会は幕を閉じたが、ビリヤニは余っている。通常私がビリヤニを作る時、2.3人前を安定して作ることは難しいので、大概6人前くらいになるのだ。冷凍すればいいが、同じノリで冷凍しているものが数多ある。私の冷凍庫はインド亜大陸の混沌が眠っているのだ。友人に連絡し、別日に引き取りに来て貰うことにした。
「ビリヤニでも作るか」
友人を呼んだ当日、スーパーに骨つき鳥もも肉1キロを買いに行く私の姿があった。なぜビリヤニがあるのにビリヤニを作るのだろうか。答えは明確である。来客がある際にメイン料理が無いという事態をしでかしたくないからだ。ビリヤニを確立していない私にとって、それは失敗することがたまにあり、しかも最後に蓋を開けてみるまで合否が分からないという博打な料理だ。何もここまで恐れることもないとは思うが、私は初めてビリヤニに挑戦した際、友人を呼びつけ、4時間は待たせて日付を越えるぎりぎりに完成し、しかも1/3が焦げているという失態をしでかしたことがある。それ以来数度作ってはいるが、いずれも人を呼ばずにこっそりと身内で消費した。まことに肝っ玉が小さい。今回は、保険であるタコビリヤニが控えているので最悪の事態は免れられる。苦い思い出を払拭し先へ向かうための復活戦とするのだ。
ビリヤニのざっくりとした工程は、フライドオニオンを作る、グレイビーを作る、米を茹でる、そしてそれらを層のように重ねて炊く(これは一例に過ぎない。レシピは星の数ほど存在する)。私が多用しているレシピのチキンビリヤニは、肉のマリネ時間やグレイビーを煮る時間が長く採られているため、その間手持ち無沙汰になり、キッチンでソワソワと謎の踊りを踊る空虚な時間が誕生してしまう。
精神的にも外面的にも下の階の住人にとっても良くないので、今回はその間に、ビリヤニに合わせて食べるミルチ・カ・サーラン(青唐辛子とナッツのグレイビー)や、ラーエター(ヨーグルトサラダ)も作っておく。2時間を越えたあたりから完全にハイになってしまい、死ぬまで踊らされる赤い靴のような成分が何かしらかのスパイスに入っているのだろうかと思いながら、追加で何品か料理を拵え続ける。世が世なら悪魔祓いを呼ばれたかもしれない。
友人が到着し始め、いよいよ密封したビリヤニ鍋をナイフでこじ開ける。サフランやカルダモン等の華やかな香りが四方八方に飛び出していく。スパイスミラーボール。フロアを沸かすパーティーグッズだ。米がガン立ちしていますよ!!と言ったら、友人はもうちょっと言葉を選んだ方がいいという目でこちらを見ていた。ビリヤニに用いる長粒米はうまく炊けるとにょろにょろと長くなりそびえ立つのだ。とにかく、無事に炊き上がっていたようで一安心である。鶏肉は骨離れが良く、骨の髄からうまみが染み出て米に絡み、重層的な味と香りにできていたと思う。友人はおいしいと褒めてくれ、私もいい出来のものを出せてとても嬉しい。何より、気の置けない友人達とゆっくりと、ワシワシと食べるビリヤニは最高だ。友人らには、タコビリヤニやら当日の残りやら粽やら(冷凍庫の謎の氷山の一角である)を引き受けてもらい解散した。
友人が帰り、風呂入って寝るかと思っていたら、背筋に悪寒が走り頭が揺れ気味だということに気付いた。数時間薄着で作業し続けていたため、見事に風邪をひいたようである。そういえば確かに寒いなとは思っていた。
ビリヤニの層を重ねることが出来て、なぜ服を重ねることができないのだろうか。自然への畏敬や、それと戦う人間の叡智などとのたまっている場合ではない。以前動物園で、ブランケットを自ら羽織っていたオランウータンのことを思い出す。彼らは、自然と自らの体温の差を感じ対応することができる賢明な霊長類である。私が野生生物だったら淘汰されていただろう。社会と文明がある人間に生を享けたことに感謝をしながら、風邪をひきましたすんませんとリスケの連絡を各所に入れた。社会的人間なので、ビリヤニを作っていて風邪をひいたことは伏せた。
やりすぎないこと、丁度よく生きること、その前に立ちはだかる壁はとても高い。でもどうせやりすぎる人間だから、健康に気をつけて体力をつける方向に舵取りをしようと思う。