「紺野純子」という昭和アイドルを知っているだろうか。
2期が始まった「ゾンビランドサガR」に登場するゾンビィアイドルである。「ここの純子ちゃんのイケボ興奮する」というスラングそのまんまに、録画した1話を何度も巻き戻し「粘っていこう Never give up again」と歌っている箇所をリプレイしているのは、地面の変態・フチダフチコである。
さて、いつも「エヴァ」だの「サガ」だの脈絡のない話から始まり大変に恐縮ですが、前回も然り・今回も然り・全く関係ないワケじゃない。「サガ」はゾンビの話、ゾンビといえば地面から這い出る姿が想起される。関係がある。決して、コジツケじゃない。
今回のテーマは、シンジくんが数年眠っていた「Q」と同じく、誰かが静かに眠り時を過ごす地面の話をしたいと思う。ここまでテンション高めに書いたが、自分でも何を言っているのか全然分からない。「土に還る」の歴史を探る、という感じでしょうか。果たして、私が撮る地面の写真と何の関係があるのか。マジでワカラン。助けてほしい。
「土に還る」、すなわち「土葬」である。古くは石器時代には執り行われていたという弔いの形。ネアンデルタール人が行っていた葬儀が、時・所によっては今も続いている。中国・韓国・キリスト教国家・イスラム教国家など広い範囲の土葬を語ると流石にその数は追い切れないのでまたの機会に。今回は日本の話に絞って、その他は割愛する。
旧石器時代に行われていたという話だが、その後の記録は「日本書紀」に記載されているらしい。大化の改新で「大化薄葬令」という勅令が出され、その時代まで古墳が作られていたのが、小型の墓に変わった。それまで権力の象徴だった墓が中央集権化に伴って不必要に、結果的に簡素な墓が登場し始めた頃の話である。「日本書紀」には、この時代の変化について「葬儀は他者に見られないように弔え」的な記述があると聞く。これが、土に埋めろ、的な意味なのか。
古墳の場合が火葬だったか土葬だったかは知らんが、上記の記述から少なくとも7世紀、すなわち飛鳥時代から奈良時代に掛けての墓では土葬が行われていたのである(実際は火葬も行われていたが、僧侶や天皇など特権階級の人たちが対象だったらしい)。この飛鳥時代から奈良時代の墓といえば、有力者の墓から家族葬等に移行した時期のはず。家族を「土に還す」という選択をした人たちがいるのだ。
これは日本の「土葬」の歴史の中でも相当昔の話で、近世・近代にも「土葬」の話はある。儒教が奨励された江戸時代は特定の藩で土葬が執り行われたし、明治時代は神道の教えを受け入れ火葬を禁止した。
それでは現代はどうか。「墓地、埋葬等に関する法律」というのがあり、今でも土葬は認められている。しかし、病原体に汚染された遺体については制限が掛けられるとのこと。実は、先に書いた明治時代の「火葬禁止令」発令時も、コレラ等の伝染病が流行って結果的に土葬が禁止された。そして、衛生面での問題や墓地の確保の問題から火葬が再開したと聞く。この衛生面・墓地の確保の問題に関係してなのか、現代でも特定の都市では条例等で土葬を禁止しているという。どうあれ、今や土葬はマイナーな埋葬方法という話。
しかし、現代でも土葬は行われた。2011年3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)である。被災者の遺体の数は多く、火葬場での処理が追い付かずに土葬という選択に至った。現代でも「土葬」という選択があり、事実として「土に還る」人たちがいた。私たちは、この地面の上に立っているのである。余談だが、あの日は私も被災者として横浜の難民キャンプで休んでいた。何が起こったのか分からないまんま横浜アリーナで寝て翌朝、大型モニターに津波の映像が流れていたのを覚えている。その時を超えて、私たちは、私は、この地面の上に立っているのである。
家族を「土に還した」人たちがいた。災害に直面し「土に還した」人たちがいた。「旧石器」という文字から始まった調査だったので土葬イコールどこか野蛮なイメージだったが、色々と書籍に当たっている内に「土に還す」行為にぼんやりと愛が感じられ始める。ぼんやりと愛が見切れている。愛は静かに見切れている。
宗教的な話はワカラン。衛生面の話や、墓地の確保の話も、素人の知識しかない。しかし、この「土葬」と「火葬」では大きな違いがある。骨として還すのか、「人」そのまんまの形で還すのか。「人」として還すから愛が見切れて見えるのか。
「紺野純子」という昭和アイドルを〜、なんてアホ丸出しの話からスタートしてしまったから、しんみりとした読後感を与える記事を書くのは心苦しい。なぜこんな話に終着したのかは自分でもワカラン。そして結局、私が撮る地面の写真と関係があるのかもマジでワカラン。助けてほしい。
ワカラン・ワカラン・ワカランの中で少し分かっているのは前回の「カワイイ」に「愛」が足されたということ(?)。地面に落ちている物に心惹かれ命を感じるが、その「地面に落ちている物」に生物的な意味での命は存在しない。しかし、地面そのものには命が宿っているのだ。これまで、多くの命が還っているのだから。この命に満ち満ちた地面と、命なき物の接触。それに惹かれるのが「地面のファン」なのか。
最初から最後まで、自分で何を言っているのか、何を書いているのか、マジでワカラン。しかし、一人で妙に納得してしまっている。 次回、『地と、「襲来」』。サービスサービスぅ。