毎朝、起きたら「知っている天井」がある。一方で、下に広がっているのは「知らない地面」。知らない、というか、毎日変わり続ける「地面」がある。今日の地面も、明日の地面も、私たちはまだ知らない。
そんな地面に現れる、私たちの想像できる範囲を逸脱した「使徒」の存在。地面に”襲来”する「使徒」こそが今回のテーマである。
ハイ、また何を言っているのか全然分からないので丁〜寧〜に掘り下げる。いつもスミマセン。いえ、単に地面に変な物落ちている時あるよね、というだけの話である。以前紹介したさつま芋の写真のように、なぜここに現れたのか分からないあれこれが見付かるのです、地面には。今回は、それを「襲来」と呼んでみる。私たちが「かくあるべき」と考えている地面の常識をブチ壊す、その訪問者について書こう。
このように、各地で”襲来”は起こっている。「落ちている感」を超えて、「やって来た感」のある地面。フツーはその場所に存在しない物が、なぜかその場所に佇んでいる。
その落とし物・ごみには命が感じられる。しかし、この「襲来」には「落とし物・ごみに命が宿っている」という意味以上に、命を感じる要素が隠れているのである。それが、命の循環。
話は、鳥のフンについて(?)。幼い頃読んだ、今はタイトルも思い出せない一冊の絵本の話。果物を食べた鳥はどこかへ飛び去って種を含んだフンをする。ある土地で育った果物がその場所から遥か遠くの地で新たな命を芽吹く、地面から地面へのバトンリレーである。ある地面から、ある地面へと、命は「襲来」を繰り返すのである。
地面に落ちている物には、基本的に人の介入が見られる。落とし物には落とし主がいるし、ごみにはポイ捨てした悪い奴がいるのである。しかし、その人間の介入とはまた別に、動物や雨風による変化も強いられる。人に落とされた物が、自然に運ばれるのだ。まるで鳥が果物を食み、どこかへ飛び立つように。例えば、先程の写真は単なるグラビア写真ではない。雨に濡れてアスファルトと一体化しているのである。 人が落としただけでは成し得ない、地面の姿。
こうして起こる「襲来」の結果、「なぜここに」という違和感が生まれる。その違和感をエンターテインメントとして受容するのが「地面のファン」だ。私たちは、地面に転がるあれこれに「命の循環」を感じていたのである(そうなの?)。
地面に竹輪は、意外と多い。猫に餌を遣る人がいるのである。これも、その辺のにゃんこに咥えられてどこかへ運ばれる。
さて、今をときめくバンド「クリープハイプ」に「栞」という楽曲がある。大切な人を栞に喩えた「迷っても止まってもいつも今を教えてくれた栞」という歌詞や、その恋自体を一つの物語と捉える「この気持ちもいつか手軽に持ち運べる文庫になって」という歌詞が特徴的な名曲である。「14歳の栞」という映画の主題歌として取り上げられたことも記憶に新しい。
この楽曲に、「地面」が現れる。「桜散る」という歌詞に続く「地面に咲いてる」という歌詞である。咲いた桜の命が地面に落ちる、すなわち「襲来」を果たして尚、「咲いてる」と表現されるのである。地面に落ちている花にもまた一種の趣があり、「枯れた」というふうには思えない。これもまた、地面に咲く命なのである。
本来あるべき所から、地面へと。命は今日も「襲来」を繰り返している。
今回は「マジでワカラン」状態で終わらずに済んだ。よかったです。次回は「最後の渚」。サービスサービスぅ。