緊急事態宣言下。ゴールデンウィークらしいが、金色にしては随分とくすんでいる。仕方ないけど、外には出づらい。きっと、地面も賑わってないはず。
地面は、人の動きに合わせて変化することが多いから、こうして外出が制限されると変化が途切れる。しかし、一方で前回書いたように雨風の影響を受けて自然に変化する地面もある。人の動きが制限される状況だからこそ見える地面もある。それを見付けに散歩に出るのもまた一興である。
3年前のゴールデンウィーク、まだ抗がん剤の副作用が残っていて吐き気がもの凄いというのに私は鎌倉の海岸にいた。学生時代の同期一人と高校時代にツイッターで知り合って一度も会ったことがなかった奴一人、プラス私の3人でブルーシートを敷き、海で一夜を過ごした変な思い出。
さて、「人の動き」と「自然」と「海」と。緊急事態宣言下で語るべきは、海岸の話である。
海岸にはごみが落ちている。遊びに来たひとたちが捨てる物、漂着する物。そして、海外へ流れる物もある。「ごみ」を撮る「地面のファン」という立場からすれば、その写真を撮って楽しむべきかもしれないが、正直何とも言えない気持ちがある。というか、汚い海岸の写真を撮ることだけじゃない。毎日、地面に落ちている物を撮って楽しむ半分、どこか寂しさも感じる。街は賑わっているのではない。汚れているのである。
ごみの写真を撮って拾わずに写真を撮っているだけの私は考えればめちゃくちゃ悪い奴であって、アーティストとか何とか高尚な表現をされるような人間ではない。「地面のファン」管理人です、と自己紹介をする裏で、葛藤もある。ごみ、放っていていいのか。
海に転がっているごみは、「人の動き」によって作られる地面である。しかし、「落としてしまった」「失くしてしまった」という寂しさは感じられず、邪悪さすら感じられる。そう感じることもまた、「地面に命を感じる」内と言えばそうかもしれないが、なんかモヤモヤする。「人間」が意図的に、無理矢理に、関わる地面だからか。何を言っているのかワカラン状態かもしれん、ヤバイ。
・雨風で地面に落ちる花のように「自然」が「自然に」に現れる地面
・落とし物のように「人間」が「自然に」に生み出す地面
・ポイ捨てのように「人間」が「意図的に」生み出す地面
・「自然」が「意図的に」というのは何だろうか、これはワカラン
この「自然」or「人間」をどう処理するかで「地面」は区分できる気がする。もちろん、これがすべてではないけれど。
今後、ごみの写真をただ楽しんで撮っているだけでいいのだろうか。時々そんなことを考える。ごみが落ちていることを肯定し続けていいんだろうか。楽しんでいいんだろうか。
でも、そんな時にこんな「地面」を見ると、ごみを撮ることにも意味があるんだろうな、と思う。
「人間」が「意図的に」生み出した地面である。しかし、ポイ捨てではない。近所の公園を掃除する人がいつもこうしてキレイに並べながら集めるのだ。
言葉で表現するのはちょっと難しいけれど、私は今後こういう「地面」を撮りたいと思っている。何て言うべきか。結局マジでワカランのまんま終わっている気がする。スミマセン。
次回、「Air on the 地 string」。サービス、サービスぅ。