7 凪子の男(前編)
凪子について語ろうとする時、俺は、胸が苦しくなる。この苦しいという感情は、付き合えば消えるだろうと思っていた。でも、むしろ、苦しみは募ってゆくばかりだ。今の俺は、凪子を繋ぎ止めることに必死で、凪子以外のことがどうでもよく思える。これはちょっとマズい状況だ。恋愛も青春も友情も成績もそこそこ。それが本来あるべき俺の姿。今じゃ恋愛以外が全部抜け落ちてる。これはマズい状況だ。
凪子に惚れてるヤツはたくさんいる。当然だ。あいつはめちゃくちゃ美人だし、将来、モデルとか、女優になってたって誰も驚かないだろう。
数学の村上先生が惚れてるっていう噂も聞いたことがある。村上先生は俺たちの学年でもかなり人気の先生で、みんなから尊敬されている。凪子みたいな女子は、教師と生徒の恋、みたいな、ドラマみたいな恋も似合うかもしれない。むしろあいつには、そういう恋愛の方が合っているのかも。
三浦先輩が凪子に惚れているというのは有名な話だ。三浦先輩は学校一のプレイボーイと謳われていて、いろんな女子をとっかえひっかえやっているらしい。先輩は凪子をものにしたくてたまらないのだと、俺は人づてに聞いた。
だから、そんなにモテる凪子と、どうして俺が付き合っているのか、不思議でならない。
数ヶ月前、俺はダメ元で凪子に告白した。
「いいよ」凪子は独り言みたいに呟いた。「よろしくね」
「本当にいいの?」俺はつい尋ねてしまう。
「うん。いいよ」
あの日以来、俺は頭を悩ませ続けている。恋愛において重要なのは、付き合う前よりもその後なのだと、俺は初めて知った。俺は凪子の気持ちがわからない。何を見て、何を考えているのか。何に感動して、何に悲しむのか。何一つ、俺にはわからない。凪子を知ろうとする度、俺は挫折し、悩み、のめり込み、周りのことが見えなくなる。
◯
凪子はあまり俺と目が合わない。
「凪子」俺は彼女の名前を呼ぶ。
「うん?」凪子は答える。こちらを見ずに。
俺は話を続けながら、内心、不安になる。凪子。どうしてこっちを見てくれないんだよ。俺はこんなにおまえを好きなんだ。どうして見てくれないんだよ。
俺は嫌われているのだろうか。そんな不安がよぎる。俺は凪子に嫌われたくなくて、いろんな見栄を張る。それでも、凪子は俺を見てくれない。むしろ、見栄を張っている俺を軽蔑しているのではないかとすら思う。俺はここ最近、そんな不安をいつも感じながら生きている。
それから、凪子は俺のことを苗字で呼ぶ。
「ねえ、ナラザキくん」
「あのさ、ナラザキくん」
「ナラザキくんってさぁ」
俺は自分の苗字を聞く度、不安になる。俺は下の名前で呼んでいるのに、どうして凪子は苗字で呼ぶのか。俺に対して一定の距離を取りたいんだろうか。凪子は俺のことを、どう思っているんだろうか。俺は不安になる。
凪子には壁があって、その壁を俺は壊せずにいる。その壁は何重にもなっていて、一つ壊しても、また一つ、また一つと続いている。一体、いつになれば、俺は本当の凪子に出会えるのだろう。凪子の、裸の心が見たい。着飾っていない、そのままの凪子が見たい。本当の凪子が見たいのだ。
◯
「なあ、お前の彼女、浮気してるかも知れないぜ」HR終わりに、教室で、太田が俺に話しかけてきた。
「は?」
「聞いたんだよ。丸の内辺りで、凪子がおっさんと歩いてるの見たって」
「誰が見たんだよ」
「知らね。でも、学年中で噂になってるよ。知ってたか?」
「知らなかった」
「だろうな。みんな、お前に気ぃ使って言わないんだよ」
その先の太田の話が、全く入ってこなかった。
凪子が浮気している。丸の内で。おっさんと。
心臓がバクバクと動いているのがわかった。張り裂けそうなくらい強く動いていて、俺は何もできず、ただ、虚空を眺めていた。