当番ノート 第56期
3 凪子の口紅 どんなに急いでいる朝でも、凪子は必ず、眉と唇だけはメイクをする。すっぴんでも十分整っているのに、どうして遅刻してまでメイクするのか。アタシにはわかる。メイクが、凪子にとってどれだけ大切なことなのか。アタシにはわかる。凪子は、美しくないといけないのだ。素の自分なんて、見せてはいけないのだ。すっぴんでいたって、凪子は誰からも愛されるだろう。だから、化粧で誤魔化しているとか、そうい…
当番ノート 第56期
モネと動物病院に行くとき、予約していた待ち時間より必ず30分ほど早く行き、わざと待ち時間を作るようにしている。普通であれば、予約した時間ちょっと前に行くだろう。しかし、その待っている時間というのも、モネにとっては大切な時間なのだ。 小さい頃からモネは慣れてない場所で緊張しやすく、動物病院につくと、口を開け舌を出し、息が粗くなってくる。私の膝の上でじっとお座りして一見落ち着いているようにみえるが、背…
当番ノート 第56期
「地面と命」という壮大なテーマを掲げて書き始めた「当番ノート」。シン・エヴァの流行りに乗って最初は「ジメンゲリオン」というタイトルで書こうと思っていたが、カタカタ打ち込んでいる最中に「地面下痢音」と変換されてしまったので急いで中止した。 「序」に続いて、今回は「破」である。エヴァの場合、「破」は最高傑作と名高い。そんなこんなで執筆への圧力は凄い。自分で蒔いた種である。地面に蒔いた種である。 前回書…
当番ノート 第56期
2 凪子の人形 僕が凪子と出会ったのは、凪子が四歳の時。僕はデパートのおもちゃ売り場の、ガラス棚の中で微笑んでいた。たまたま立ち寄った凪子の一家が、僕を買い取っていったのだ。当時の凪子はミディアムヘアで、黒曜石みたいにキラキラした眼を持っていた。とても綺麗な眼だった。僕は彼女に見つめられた瞬間、背筋がゾクッとしたくらいだ。 「ねぇ、ママ。私、この子がいい」 「本当にいいの?」 「うん。この子がい…
当番ノート 第56期
今年で、線維筋痛症、慢性疲労症候群という病と共に生きて、12年ほどになる。 23歳ごろから、少しずつ体に鉛を注入されたかのごとく、怠さが増していった。家の中での移動でさえ、体を重力から剥がすように、足をよいしょ、よいしょと一生懸命動かさないといけなくなって、すぐに息が上がるようになってしまった。通学することも困難になり、日常生活もままならなくなった私は色んな病院に行って、何人ものお医者さんに相談し…
当番ノート 第56期
実家もアパートだったし、今住んでいるのもアパートだし、そんなこんなで「アパートメント」というウェブマガジンに書くのは何やら楽しい。「マンション」とか「アパート」とか、それぞれの言葉の意味の違いを知ったのは恥ずかしながらここ最近の話で、意外とライターは言葉を知らない。住めればオッケー、住めば都、余談だが最近まで「宮古島」を「都島」だと思っていた。ライターを、というか私は、あんまり言葉を知らない。 そ…
当番ノート 第56期
1 凪子のヘアゴム 凪子の髪は、ほんのりとシャンプーの香りがする。化学製品をたっぷり含んだバラの香り。その香りは、ひとたびかいだら誰もが虜になる。まさに、凪子そのものだ。 凪子の髪のことなら、わたしは何でも知っている。香りはもちろん、その指通りの良さや、ウットリするようなしなやかさ、琥珀色のその髪が、夕日に当たったときの、焼けつくような美しさ。わたしは何でも知っている。毎晩、しっかりと手入れを…
当番ノート 第55期
2ヶ月間の締めくくり、今回が最後の連載になってしまった。テーマを思いあぐね、今までに書いたものを読み返していた。 連載のスタート時のテーマは、生活保護の「生活」の様子を私なりに綴ることだった。コロナ禍で女性の自殺が増えているニュースに胸を痛めていたので、生活保護でも案外生きられると思ってほしかった。今思うと、それに気を取られて明るく書きすぎたきらいがある。しかし、とにかく陰鬱な印象を与…
当番ノート 第55期
偶然起きた出来事に、無駄に喜んでみたり、そこから思い出したことを、あれこれと繋ぎ合わせてみるのが好きだ。パズルも楽しかったけれど、少しでも形が合わないとつながらないのが、子どもながらに納得いかなかった。 この紙にこういうモノを描いたら面白いんじゃないか、破ってみたら面白いんじゃないか、そうやってあれこれわたしにいたずらされるものたち。自分の役割とは違って、納得がいかないかもしれない。それでもわたし…
当番ノート 第55期
わたしたちは故郷を離れると、一体自分がどんな人間だったか、何が好きで何が楽しくて生きてたのか、もうすっかり忘れてしまう。新しく出会った大人を片っ端からつまらなく思ったり、そう思ってしまうわたしのほうがつまらないんじゃないかと責めたりして。だけどそんなことないと言い切れるのはまた帰りたいと思えるあの時間があったから。あの時の私が大好きだと心から言うことができるから。大丈夫。あそこが私の故郷で、あの日…
当番ノート 第55期
“さっき”が消える。 認知症のおばあちゃんと対面した時、私がこれまで抱えてきた人間関係の悩みや努力は、”さっき”があるから存在してるだけで、脳が”さっき”を消してしまえば、努力も執着も簡単にへしゃげてしまう世界なのだと気がついた。 『なんも食べさしてもろてない!』(さっき、要らないって…)『いりません』(さっき、欲…
当番ノート 第55期
最近乾燥してない?と友人に尋ねたら、え、茨木のり子の詩のこと言ってる?と聞き返された。思わず私の感受性と尊厳は瑞々しさを保っているかと自問自答していたのだが、駄目なことの一切を時代のせいにすることは、本当にわずかに光る尊厳の放棄なのだろうか。今の私は、社会由来の苦しさを無視されながら叱咤激励するマッチョイズムを感じて苦しくなる。 障害者雇用で時短勤務から社会復帰しようと思い、勇み足で転職エージェン…