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3F/長期滞在者&more

とある脱出に向けてのとある読書。

長期滞在者

思えばもう5、6年になるから、
結構長いことウツウツとした引きこもりをつづけているのだけど、
ここに来て、このままではやばいぞ、
とやっとのことで本気で思い始めた。
思ったからと言ってなんら解決はされていないのだけど、
とりあえず少しケツに火がつきかけているのを感じている感じ
ではある。

引きこもっているとついついネット依存度が高くなってしまいがちなのだけど、
一昔前ならそれでもまだ「ネットサーフィン」と言えたくらいの自由度があって、
普段の自分の生活からは思い浮かばないような情報に辿り着けたのだけど、
今はもうそんな自由度はなくなってしまっているので、
無反省にグーグルやフェイスブックに頼っていると
どんどん得られる情報の幅が狭まってくる。
幅が狭まっていると言うと深まっているとみることもできそうだけど、
意外とそうでもない。
狭まりながらも深まらないのは
自分自身の好みの人物のリストから発信される情報がだけ大量に積み重なり、
自分自身の好みが反映された検索ワードが自動的に忖度されて次々と提供される、
そういう手前味噌的情報群に浸り切る環境の
その心地良さや便利さに埋もれてしまっている限りは、
それを突き詰めれば反対側に出て行ってしまうような
ラジカルな行為になり得るはずの、
「深める」というところまではどうしたって行き着けない、
というか、そういう方向に踏み出す必要を感じなくなってしまうからだ。
とは言え、もしそこに過保護的不健全さのようなものがあるとしても、
引きこもらないでいればまだ救いはあるのだろうけど、
引きこもり歴が長ければ長くなるほど、その救いは遠ざかって行く。
人や環境との対話がなくなるからだ。
対話がなくなれば、自分の中に溜まって来ている情報の
アウトプットが(健全に)できなくなるから新たな視点は得られないし、
それ以上に自分自身のカタチが不鮮明になってくる
(これが酷くなるとウツの症状が出てくる)。
せめて本を読みまくるということでもあれば良いのだけど、
ここ数年、活字を読むのが苦痛なことが多いので、
それにはあまり期待できない。
それならば外に出て人に会ったり、
せめて違う環境に身を浸すために観光旅行でも、
なんなら身を海水に浸してリアルサーフィンでもしてくれば良さそうなものだけど、
なにせそれができないのが引きこもりである。
八方ふさがりである。
終了。
ゲームオーバー…

という結論に達してしまった瞬間に、
これはマジヤバい(当然ながら肯定的な意味ではなく)と思い至り、
前述のようにケツに火がつきかけている感じになっているというわけだ。

ということで、今現在、
ちょっとしたパニック状態にあるとも言えるのだけど、
自分でも意外なことにわりかし落ち着いていられるのは、多分、
とある本が手元にあって、
それをゆっくり読み進めているからだと思われる。
直前に活字を読むのが苦痛と書いたし、
それは本当にそうなのだけど、この本は読める。
例えば、ちょうど今、
今夜は全く食欲がなくて何も食べたくなかったのだけど、
たまたま買っておいたオレンジを見つけて、
それだけは食べる気になって夕食がわりにしたのだけど、
読書も同じようなものだから、
今のぼくにはたまたまちょうど良い本だったのだろう。
この本を読み進めるにつれ、少しずつ気分が上向きになっているのは確かで、
ちょっと読み終えるのが惜しいくらいだ。
今はその最後の章に差し掛かっているのだけど、
ここまでの印象だけで言っても、
これはいろんな意味で近年稀にみるような重要な本だと思う。

この本がどこまでぼくに影響を与えてくれるのかは、
もちろんまだ未知数だけど、かなり良い予感がしている。
そういえば、こんな風に書物が人生の契機になったという経験がぼくにはいくつかある。
特によく覚えているのは、
中沢新一の『蜜の流れる博士』と
松岡正剛の『ルナティックス』だ。
『蜜の流れる博士』は渡欧に至る契機になり、
『ルナティックス』は失恋から立ち直る契機になった。
そして今回のこの本もぼくに大切な契機をもたらせてくれそうだ。
その本というのは一ヶ月ほど前に出版された、
東浩紀の『ゲンロン0』。
ありきたりな言い方だけど、今のこの時代のこの閉塞感の中に
光明を見出すすべを哲学で提示しようとしている(と思われる)本なので、
心当たりのある人には是非薦めたい一冊。
哲学といいながら、とても読み易いのも素晴らしい。
スゴく良いですよ。

ひだま こーし

ひだま こーし

岡山市出身。ブリュッセルに在住カレコレ24年。
ふと気がついたらやきもの屋になってたw

Reviewed by
カマウチヒデキ

一冊の本が人生を変える、というのは、大げさかもしれないけれど、その一冊で生きている足元が一撃ぐらつく、くらいの経験は、そう頻繁ではないものの、たしかにあるものだ。
そしてそれは
「星や月じゃなくて、地球が回っていただなんて!」
みたいな大仕掛けではなくても起こりうる。

高校生の頃、斎藤憐の戯曲『クスコ』を読んでいたとき、「王である私以上に優れた者がいるのか」となじられたクスコが
「しかし人は優れたものを愛するわけではありません」
と切り返す。
高校生の幼稚な恋愛経験の上に、今考えたら別にどうってことないこのセリフが、なぜか稲妻のように落ちてきたのだった。どーん!

「人は優れたものを愛するわけではない」
このシンプルなセリフに、何かこの世の真理のようなものを教えられたような、そんな錯覚にとらわれてしまい、しかしよくよく考えてみれば世の無数の悲喜劇は人は優れたものを愛するわけではないから起こっちゃってるような気が、たしかにする(笑)。

と、ひだまさんの本文にあるのとは随分レベルの違う例を引いて申し訳なかったけれど、指向性の強いアンテナばかりで生きていたら永遠に自分の後頭部側に広がる世界に触れもせで目の前の蟻地獄的求心穴にとらまえられてしまいそうだから、そうか、そうなのか。
今まで僕は「人と会う」ことをどちらかというと面倒臭がって生きてきたけれど、自分のうしろあたま側を観るための鏡だったのか、人と会うということは!

と勝手に納得して、ふむふむ言ってる私なのだ。

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