マイマイカブリという虫が好きだ。
少し正確ではない、言い直す。
マイマイカブリという虫が好きだったことを思い出した。
実物のマイマイカブリなんて、もう30年以上見ていない。
長い優美な形状の甲虫である。ロッテンマイヤー女史が着ていた濃紺の長い衣服を連想させる。
「舞舞被」という字を頭に浮かべれば典雅な舞楽のようであるが、実際は舞舞(マイマイ)とはカタツムリのことである。カタツムリの殻をカブっているから舞舞被。別に遊びで被っているわけではなくて、カタツムリの中身を食っているのである。
子供の頃は田舎の町に住んでいたからこんな虫もしょっちゅう見かけた。名前の通りカタツムリを食っているところに出くわしたこともある。体の上部は華奢で細く、擬人化するなら人間の腰から下にあたる部分、まさにロッテンマイヤー的な形状の外側の堅い羽根(「前翅」と呼ぶ )の曲線が美しく、小学生の僕ですら、ちょっとだけぞくぞくした。
三十数年見ないその虫を思い出させてくれたのは、最近行ったとある自然科学系博物館での展示だった。マイマイカブリもそれに属する「オサムシ」の特集が過去にあったらしく、その関係の資料が豊富で、オサムシの一員たるマイマイカブリのコーナーもあった。
そこで、ヴィレッジヴァンガードで売ってる巨大ゴキブリ模型(知ってる?)に負けないインパクトの巨大マイマイカブリ模型が展示してあり、三十年ぶりに脳のその回路に通電が起きた。そうだ、僕はマイマイカブリが好きだったのだ!
そして僕はそこに書いてある説明文に衝撃を受ける。いや、この衝撃を人に説明するのは難しい。だからどうした、と言われて終わりだと思うが、勇気を出して説明してみよう。
マイマイカブリの前翅、つまりあのロッテンマイヤー的部分の外羽根のことであるが、あれは実は左右融合していて開かないのである。
ほら、だからどうしたと言う声が聞こえた。すみません(続けます)。
なんで? だって真ん中にちゃんと直線で切れ目が走ってるのに? 飛ばない虫というのは他にもいるが、これ見よがしにあんな優美な前翅を持ちながら、あの羽根が開きもしないとはどういうこと? 単なる鎧の役割であるならあの切れ目は必要ないではないか?
別に進化の謎について語りたいわけではない。
どうすればわかりやすくこの衝撃を説明できるだろうか。
僕はマイマイカブリが好きだった。
なのにすんでのところでマイマイカブリの前翅が融合して開かない、ということを知らない人生を送るところだった。危なかったのである。
マイマイカブリのあの細い上体はカタツムリの中に入って中身を食いやすいように細いんだぞ、とか、そこまでは知っていたのに、こんな特異な特徴を知らなかったなんて。
知らなくても何も支障はない。知ったから人生が幸福になるという話でもない。
しかしそれでは「好きだった虫」の「好きだった」の部分の沽券に関わるのである。そんなコケンは猫にでもくれてやるがいい、などと言うものではない。人間は結局そういうつまらないコケンの集積で生きているのだ。
使い古された、かつ大袈裟な言い回しだが、行く先々の分かれ道で、常に右か左かを選択し続けて歩くのが、生きるということである。
それは「この父母の間に生まれる」とか「5歳にしてロックンロールに出会った」とか、そういう大袈裟な分かれ道だけでなく、マイマイカブリの羽根が開かないことを知った、みたいな、毛細血管みたいに些細な分かれ道も含まれるのだ。些細ではあるが、しかし僕はもうマイマイカブリの前翅が癒着していることを知らない時の僕ではない。マイマイカブリとの三十年の空白を、前翅癒着という知らなかった事実が繋いだ。こんがらがった三十年分の枝道にすっと光が通った。
僕らはこれからも、些細な、微細な、千々に砕けた小さな分かれ道を選んでは進むのか、なんてことをマイマイカブリの模型の前で、ちょっと大袈裟に考えてみたのである。そして今までもこんなこんがらがった細い枝道をたどってきた結果の「ここ」に、今立っているってことなんだな、と。そうやってその道を選ばなければ見えなかった光景を見、また、別の道を行った人が見た光景は見逃して、アミダくじのような小道を進んできたのだ、と。なんか面白いと思いませんか?
ここで僕の撮ったマイマイカブリの写真でもど〜んと掲載できればかっこいいんだけど、街なかに住んでいればそうそうお目にかかれる虫でもなし、そうもいかないので、知らない方は画像検索で探してください。あなたも小さな枝道をこっち側に来たことになりますよ。
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というわけで、またこちらにお世話になります。
月に1回、毎月20日に更新の予定です。
短期滞在のとき8回書かせてもらったので、今回も8回くらいを目標に頑張ろうかと思ってます。よろしくお願いいたします。