三週間ほど前に日本からブリュッセルに帰ってきた。
毎度のことながら、戻ってから一週間ほどは、時差ボケ、文化差ボケ、天候差ボケに悩まされた。
実感からすると、大まかに言って、時差は体調に、文化差は思調に、天候差は感調に影響する。
もちろんそれらは大体において三つ巴になってぐるぐるするわけだけど、
この復調するまでの感じは、大体においてミゼラブルというか、
メランコリアというか、基本的にあまり好ましいものではない。
ある友人の説によると、飛行機で移動すると、肉体に魂がついてこれなくて、
それが長時間になると、すっかり魂が後方に置き去りにされてしまった状態になり、
それが時差ボケを発症させる。
で、そのずれてしまった魂が元に位置に戻ってくるに従って、
時差ボケも治るという。
単なる冗談かもしれないけど、なんだか説得力がある。
ともあれ、こっちに戻ってからほんの数日は天気も良く
ちょっとウキウキしたりもしかけていたのだけど、
それはやっぱりぬか喜びというもので、
もう三週間ほど、曇天と風雨の日々が続いている。
晴耕雨読も満遍なく繰り返すのなら良いのだろうけど、
雨読雨読雨読雨読雨読晴
耕雨読雨読雨読雨読晴耕
雨読雨読雨読晴耕雨読雨…
みたいだと、さすがにやっぱり飽きてくるので、
せめて気分だけでも晴らそうと、珍しく音楽をポチってみた。
水曜日のカンパネラのSUPERMANと、
宇多田ヒカルのFantôme。
両方とも延々と聴いている。
結構気に入ってしまった。
音楽には本当に疎いので、
なんとも感想の書きようもないのだけど、
思いっきり大雑把に言うと、
SUPERMANはマニエリスムのあれこれを、
Fantômeは無常観のいろいろを思わせてくれて、
知的刺激にもなっている。
頑張ってもう少し付け加えると、
例えば、SUPERMANの中の「世阿弥」という曲がいきなり
「藤若ちゃん、藤若ちゃん、藤若ちゃん、藤若ちゃん」
のリピートで始まったところで吹きました。
また例えばFantômeの中の「俺の彼女」と「忘却」を聴いて、
あぁ〜あの「Automatic」というのは、
実は諸行無常と同根だったのだなあ、と思ったりとかもしている。
う〜ん、やっぱり音楽的なことは一切書けないなぁ、おれ…
ともあれ、この2枚(と数えるのか?)のアルバムのおかげで、
雨読にも身が入るようになったのだった。音楽のチカラ凄し。
で、この間、京都に行った時は必ず立ち寄ることにしている山崎書店で見つけた、
加藤唐九郎のインタビュー集「陶芸口伝」を読み通した。
以下はインスタグラムやフェイスブックで取り上げた文章なのだけど、
自分的にあまりにもインパクトが大きかったので、ここにも再掲。
「結局、人間は、欲望を捨てることができないから、
欲望を満足させることを考える以外ない。
しかし、自己の欲望を満足させようとすれば、
相手を傷つける場合が多い。
その相手を傷つけないで、自分の欲望だけを満たしていく手段、
方法として、人間が最後に発見したものが芸術である。
芸術は相手に関係なしに、自己の欲望だけを空廻りさせて、
そこに満足を見いだす。
宗教によって救うことのできない人間の欲望を芸術が救ってくれるのじゃ。」
加藤唐九郎
この直前のところで、彼は禅仏教について語っているのだけど、
彼は宗教や文学にもかなり精通している。
(しかもそれは陶芸を突き詰める中で身につけていった知識らしい。)
その上で、やっぱり欲望なんて消せない、
そしてその欲望を自己満足的に消費していくために芸術がある。
と言っている。
これを読んで、なんだか清々しいような気分になった。
宗教にできるないこと芸術にできることを
これだけ明確に言い切った言葉に出会ったことがない。
(これを読んだ直後に、井筒俊彦の対談集で河合隼雄が
悟った後の禅僧がなんだか信用できない感じがする、
みたいなことを言ってたのをふと思い出した。)
生きているということ自体、生物的欲望に根ざしている。
宗教が人が生きていくために必要なものならば、
それを修めていく過程のどこかで欲望を肯定しなければならないはずだけど、
宗教は社会も作っているから、その全面的肯定はできない。
(と考えられることが多い。)
ジレンマだ。
宗教的道徳観で見れば欲望は「悪」とみなされることが多いと思う。
だから修道士や修行僧は禁欲を目指す。
だけど、禁欲の先には目指すものがある。
そこに到達しようとするのも欲望だ。
ジレンマだ。
そこをあえて欲望の肯定に向かうと当然、破戒になる。
例えば一休みたいに。
そういう意味ではその一休の周りから
いろんな文化ムーブメントが生まれていったのは興味深い。
(ちなみにSUPERMANの中に「一休さん」という曲がある。)
こういうことから考えても、加藤唐九郎が言っていることには
とても説得力がある。
で、今の欲望ってどんな形に向かっているのだろう、とか思う。
それぞれの時代の欲望は形になって残っている。
例えば縄文や桃山の頃の欲望の形は見事に当時の陶器に現れている。
現代ではあんな風な欲望の形なんてどう転んでも出てこない。
今は今の欲望の形があるはずだ。
ところが例えば昭和の初期に活躍した陶芸家たちはなぜか桃山を目指した。
(同様に岡本太郎は縄文的な表現を目指した。)
そして、よく眺めてみると、それは単純に温故知新みたいなことではなかった。
むしろそれは知故温新というようなことだったようだ。
何しろ、桃山の頃のやきものの良さなんてその当時は全く忘れられていたのだから。
だから唐九郎は改めて文献を調べたり当時のものを研究したりしまくったらしい。
そして作りまくった。当然いいものもできる。
そういう風に具体的な過去の様式を目指してみるというのは、
意外と有効なのだろうと、こんな風に書いてきて改めて思う。
さて、どこを目指してみようか。
まずは空回りさせるべき欲望を冬眠から叩き起すか。
みたいな。