梅田にあるジブリショップの前を通ったら、『天空の城ラピュタ』公開30周年記念セールとか書いてある。
ジブリにはあまり興味がないのだが(最近まであの「バルス!」ていうのも知らなかったくらい 笑)、それでも30年と聞けばちょっとびっくりする。
そんなこというなら僕も見ていた『未来少年コナン』は38周年だし、別にジブリじゃなくたって、YMOだ結成38年とか、戸川純だってデビュー35年、といくらでも驚くことはあるわけだが、ことさら「ラピュタ30年」の文字にに反応してしまったのは、それがあべのハルカス美術館の『大妖怪展』を観た帰り道だったからである。
北斎の肉筆妖怪画が展示されていて、その絵が描かれたのが僕の生まれる120年前だったのだ。
北斎と僕は120年しか隔たっていないのか、と、驚いた帰りのラピュタ30年なのである。
ラピュタを物差しにしたら、僕と北斎の間の空白はたったの4ラピュタしかない。歴史上の人が、いきなり計測可能な時間で繋がった驚き。
ゾウガメやホッキョククジラなどは150年(まれには200年も)生きる個体もあるというから、北斎存命中に生まれたゾウガメが僕が生まれたあとにも生きていたりするわけだ。
たったゾウガメ一代分の時間差しかない時間に北斎が生きていた。
時間のパースペクティブというのを考え直さざるを得ない。刷られた版画、描かれた絹本画、それがはるかに隔絶した年代に作られたものではなく、僕が生まれたあとにまだ生きていたとあるゾウガメが、インド洋のどこかで卵から孵った頃に江戸で描かれたものである、ということ。
鳥瞰的に見ればおそろしく近い世界のものだったのだ。
北斎もあとゾウガメ一代分だけ長生きしたら(無理だけど)、ドローンの映像とか見られたのに。
夢中でプロポを握る北斎の姿が目に浮かぶようではないか。
ジョセフ・ニセフォール・ニエプスが世界で初めてカメラ・オブスキュラの画像を定着することに成功した(=写真の発明)のが1827年、日本に銀板写真の機材がオランダから持ち込まれたのが1843年。市来四郎ら薩摩藩士がはじめて撮影に成功したのが1857年と史料にある。
葛飾北斎は1849年まで生きているから、当時日本には写真機材は持ち込まれてはいたが、まだ撮影には成功していなかったということになる。惜しくも北斎は写真を知らずに死んだ。
もし写真が北斎に間に合っていたら、アッジェのように写真機を担いで江戸の町並みを写して回ったかもしれない。
でもすぐ飽きて、写真機は娘のお栄に任せてやっぱり自分は絵を描いているかもしれない。「龍は写らないんだろ」とか言いながら。
お栄の横で溪斎英泉がプリントの焼付をしていたり。
英泉はやっぱり遊郭に写真機抱えて通うんだろうか、等々々。
ありえないことをうだうだ想像してもしかたないけれど、しかしあり得たかもしれないくらいに惜しいタイミングでもあった。
上野彦馬が長崎に写真館を開くのが1862年。北斎の死後13年、たった0.43ラピュタのタイムラグである。