先月大阪の国立国際美術館で観た映像作家フィオナ・タンの動画展示で、メインではない小さなブースでの作品だったのですが、静止した女性の周りをカメラがゆっくり一周して撮っていく、いわば「背面まで写るポートレート」というようなものがあり、目が釘付けになりました。
美しい諧調のモノクロ映像で、どこかでその映像を切り出ししたらそこからいくらでも「ポートレート」が抽出できてしまいそうなクオリティ。
それを観て、さて、今さらだけど静止画(写真)の意義って何なんだろう、と、深く混迷に陥ってしまいました。
写真というのは、何かに当たった光が特定の一方向に反射してきたもの、だけを定着したものです。その反射の奥にある奥行きというものを放棄している。むしろ奥行きの情報を遮断することで成り立っているようにも思います。
フィオナ・タンのこの「全周ポートレート」は、静止画として撮られてきた今までのポートレートの「見通しの悪さ」をあらためて摘発?するために撮られたのだろうか、などと考えてしまいました。
静止画像を制作する身としては、この見通しの悪さのことを改めて考えざるを得ません。
エジソンやリュミエール兄弟が動画映像を発明しても静止画としての写真が残った理由は、まさか鑑賞のための時間短縮や持ち運びの便宜のためだけ、ということではないでしょう。写真には写真にしか語れないものがあるからこそ生き残っているのだ、と思いたい。思いたい。思いたい。三回言っときます。
最近「4K動画からの静止画像切り出し」みたいな感じで使われる、「切り出し」という言葉。テクニカルな話ではなく、考え方として、写真にとって「切り出す」ということの意味を考えるのは大事ではないかと、あらためて思いました。
写真は現実からの切り出し作業なので、切り出されない背後を膨大に破棄しているという引け目を負わされます。それを言葉の選び方として「抽出している」というのもなんだか不遜な気がして、やはり「とりこぼしている」部分の自覚が必要なのではないか。捕捉力という点から考えれば、写真はもう「だだ漏れ」なんですから。
何ヶ月か前にここに書いた人物写真の話で「人物写真だって風景だ」と書いて、非常にわかりにくいと不評だったんですが(すみません)、要するにこの「とりこぼし」の部分を言いたかったんです。
写真一枚でその人のことなんか何もわかりはしない、むしろ写真の背後にとりこぼされる、写らない部分を暗示させることでその人の断言されない広がりを示せないか、みたいなつもりの文章でした。わかんないですよね。ごめんなさい。
わかりにくさ、っていうのは(開き直るようで申し訳ないのですが)世界はそう簡単に腑に落ちるものではない、というメッセージでもあるわけで、世の中の事物はどれをとっても一方向の光の反射をとらえただけの静止画に収まりきるものではないのだ、ということを(矛盾するようですが)写真に込めたいのです。
なので「切り出し」は抽出ではなくて、ある種の遮蔽である。ただし、遮蔽されたものがある、ということをほのめかす遮蔽。なんかそういうものじゃないかなぁ、と思っているのです。
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さてさて唐突に宣伝で申し訳ないですが、来月写真展をします。
去年は野坂実生さんとの二人展だったので、一人の写真展としては二年ぶりになります。ただ今準備大詰めです。
2015年3月3日(火)-3月8日(日)
ギャラリー・マゴット
カマウチヒデキ写真展
『風景について2』
大阪市西区新町1-8-24 角屋四ツ橋ビル(旧称 : 四ツ橋プラザビル)7F
phone : 06-6940-7257
13:00 – 20:00(最終日は18:00まで)
僕の最初の個展がこのギャラリー・マゴットでしたし、他にもいろんな企画展に参加して大変お世話になったギャラリーですが、残念ながらこの三月で閉廊が決まり、最後に展示をさせていただくことになりました。
僕の個展としては四回目になります。内容的には2012年12月のタントテンポ(神戸)での企画展「TANTOTEMPO pure 2012」で展示した「風景について」というシリーズの続編になります。
”「風景」とは、見られる前からそこにあるのではなく、僕がそこにいることによって立ち現れる、世界と僕との共謀の産物である。”
二年少し前に書いたキャッチコピーを今回も使って、風景を考えます。
お近くの方、開催時期にたまたまお近くにいらっしゃる方、お近くないけれどわざわざ行ってやろうじゃないかという奇特な方、どうぞお運びくださいますようお願いいたします。