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3F/長期滞在者&more

暴走本棚

長期滞在者

人を招ける状態ではないので実際に見せたことのある人は少ないけれど、僕は家というよりは、本の中に住んでいる。
家の壁という壁に本棚を仕込んでいて、17年前に引っ越してきた折りにぬかりなく準備したはずであるのに、今はその棚から溢れに溢れて階段や床にまで増殖繁茂している。これはもう家ではない。本である。
先に断っておくがなんでこんなに本を買うのかと言われても答えなどない。買わずにおれないから買うのである。理由はひとまず置いといても本は溢れる。性癖のようなものだと思ってもらったらいい。

一度十数年前に総数を数えてみようと挑んだことがある。といっても、野鳥の会みたいに数取りカウンターでカチカチ1冊1冊調べていたら指がつりそうだから、まずは本棚の幅と棚板の枚数を数え、棚板の総長を計算してみた。そして本1冊の厚さを平均1.5cmと仮定し、棚の総長を1.5cmで割って冊数の概算を試みたのである。棚板総長は130mあったので約8600冊との結果を得た。
しかしこれは十数年前の計算である。今は本棚に本は奥と手前の二重に置かれ、床の各所にも積み上がり、階段という階段の各段の隅にも堆積している。

そして寝る部屋はさすがに地震があったりしたら危険だからと最初は本を置くのを避けていたのだが、そんなことを言ってる場合ではなくなってきて、天井まで新たに2000冊以上入る本棚を増設した。寝ている間に地震が来たら死ぬかもしれない。他のものに潰されるよりは本に潰されて死ぬ方がいいか、とは思っているが。

昔、西宮のお住いの世界的ペンギングッズコレクターN夫妻宅を訪問させていただいたとき、老夫婦の寝室の周囲四面にもガラスケースが置かれ、ペンギンたちが満載に飾られていた。
「地震とか、怖くないのですか」と聞いてみたら「ペンギンに潰されて死ぬなんて幸せじゃないですか」とご夫婦で笑っておられた。
「阪神大震災で1000体以上壊れたのです。悲しくてね。どうせなら次の地震では一緒に死にたいと思いまして寝る部屋に棚を移動しました」という蒐集家の気迫に、いたく感じ入った次第である。
イラストレーターでレコードコレクターの本秀康さんもジョージ・ハリスン愛が溢れすぎて、わざわざベッドの上部の棚にジョージのLPレコードを移してきて、死ぬならジョージに潰されて死にたいのだ、と書いていた。
僕も「本」ではざっくりしすぎているから、この本に潰されて死ぬなら本望、みたいな本を見繕っておかねばならないな。

2000冊収納の本棚を増設した結果、床や階段や二重置きの本がなくなったのかというと、恐ろしいことに減ったこともよくわからない。焼け石に水とはこういうことか。
この時点でもう本を「きちんと並べる」なんてことは諦めた。
そんなこんなでおそらく家にある本の総冊数はどうやら少なく見積もっても12000冊は超えているのではないかと思われる。少なく見積もって、である。正確に把握することに恐怖を感じる。12000冊ということにしておく。

この12000冊は僕がひとりで買ったものではなく、家人がまた僕と同じくらい本を買う人なので、内訳は半々くらいである。
普通は夫婦どちらかの蒐集癖を、どちらかが止めるものである。ところが二人とも買う人なのでお互いを止めない。結果こういう由々しきことになってしまうのである。制動装置のない暴走列車である。止まらないのである。

さすがにこの2000冊本棚増設が焼け石に水とわかったとき、相方が絶望したように「ど、どうしよう」と言うので「これ以上買わなきゃ増えないよ」と(無理なのはわかってて)言ってみたら、「でもいろんなことが知りたいの!」と泣きそうになりながら言うのである。この言葉を聞いてから、僕も一生本に埋もれて生きて死んでいこうと決めたのである。上等やん。

ところで僕は10年前から「読書メーター」に読んでる本、読んだ本を記録するようにしている。あちこちのカバンに読みかけの本を入れて読み切らぬまま忘れるということがままあるので、読み終わってない本を把握するためにこのサイトが重宝なのである。
この10年(正確にはこの文章を書いている時点で3550日、10年には少し足りてないが)で読んだ本996冊、読んでる本(読みかけ、もしくは途中でやめて放置している本)53冊である。読了率は95%。これはいいことなのか悪いことなのか。
世の本の95%が良い本であるはずはないから、これは良かろうが悪かろうが最後まで読んでしまっているという意味だ。くだらない本も相当数入っているはずである。なのにくだらんと思いながらでも我慢して最後まで読んでしまう。よくない性分である。人生残り少ないのに、くだらん本は途中で放棄する勇気を持った方が得に決まってる。
ところで僕は一つ心がけていることがあって、人の嫌なところを3つ見つけるまでは、その人のことを嫌いだという断を下すまい、ということ。人間というのは複雑なものだから、1つ2つの目立つ欠点でその人のことをわかったような気になってはいけない、と反射的な嫌悪を戒めている。良い心がけでしょう?
実際に初対面の印象がとてつもなく悪かったのに、話すうちに面白い点を見つけて最初の悪印象が霧散した例も一人や二人でなくある。自分の直感などというものはアテにならないものだと思い知ったのである。
これは人間関係的には意味のある判断だが、本当につまらない本にさえそれを適応してしまうのが僕の駄目なところなのだ。こんなに腹が立つ内容であるが、最後まで読めば僕の偏狭さを啓いてくれる何かが一つでもあるかもしれない、みたいな期待とともに最後まで読み、やはり最後までくだらんかったわ! と一人憤懣を抱えるのである。時間の無駄であると同時に精神の安寧にも良くない。
今後の課題は「くだらんと思ったら放棄することを躊躇するな」である。時間は無限にあるわけではない。うーん、できるかな。数少ないながら、沼田まほかる『彼女がその名を知らない鳥たち』のような例もあるからなぁ。史上最低の読書かと思いきや最後の数ページでの大逆転・・・あれは凄かったし。

10年1000冊、つまり1年あたり100冊、「読書メーター」に記録を始める前から同様なペースで読んできたとすると、17歳から40年で4000冊ほど読んだ計算である(二十代・三十代の頃はもっと大量に、下手したら年200冊、今の倍ほど読んでいた時期もあるけれど、計算がややこしくなるのでここは4000冊としておく)。
察しのいい人はお気づきだろう。家にある12000冊の内、僕が買った本が6000冊だとして、2000冊ほど未読の本があるということである。買って読んでない本が2000冊。
あれ、予想よりも少ないな。もっと読んでない本で溢れてるかと思ってた。買った総量の2/3は読んでる計算である。これはなかなか健闘している方だと思う。

そもそも本などと言うものは、買わずとも図書館で借りることもできるし、買って読んでも古書店に売ることもできる。読む本を全部買って手放さず全部置いておきたいという変な蓄書欲はどこから来るのだろう。
日常生活に支障をきたすほどに溢れかえる本。2018年の震度6(大阪北部地震)のときも怪我こそしなかったが廊下に雪崩落ちた本で玄関に出られず難渋した。本の洪水のようだった。本当にこれでいいのかとさすがに自問した。

家人は知らず、僕の場合はこの蓄書癖の発端を自覚している。
高校生の頃、祖父の家の書棚にあった『猿丸幻視行』(井沢元彦のデビュー作である)を何気なくめくっていて、主人公(折口信夫)とその友人の
「この家に『日本霊異記』はあるか」
「あいにくないな」
という会話、これになぜか惹かれてしまったのである。

日本霊異記はあるかと問われて「あるよ」と答えられる家に住んでいたらどんなに素敵だろうか!

どこに人生の落とし穴があるか。こんな穴に足をとられて、僕はずるずると蓄書道へと落ちていくのである。我ながら不思議だ。高校生、何に憧れるかわからない。
本は借りずに買って読む。読み終わっても売ったり捨てたりしない。とりあえず気になった本は懐の許す限り手に入れる。廃刊して手に入らなくなるサイクルは思っているより早いからである。何かの事情で古書店にすら回らない本というのはある。今読む時間がなくとも気になったなら買え。
こういうのを繰り返した末の未読2000冊である。もちろん、まだ読む気は満々である。この2000冊を読み切る前にまたさらに2000冊は増えてそうであるが。
コレクター、ではないのだ。あくまで読むために買っている。備蓄のようなものである。ローリング・ストックというやつである。自分が早死にする可能性は考えない。追われるように読む。強迫観念的でもある。大丈夫、正気だよ。

ちなみに今、誰かに「この家に『日本霊異記』はある?」と聞かれたら返事は、
「平凡社ライブラリーのも講談社学術文庫のも伊藤比呂美の現代語訳のも水木しげるの漫画版もあるはずだけど、ごめんね、本の樹海に埋もれて出てこないわ」
である。

・・・・・・

と、なんだか凄いようなことを書いたけれど、本の蒐集家というならば僕の家なんか多分まだまだへっぽこなレベルであり、猛者になるともっと凄い話も聞く。
今は朝来市に移転してしまったが「本は人生のおやつです!!」(略して「本おや」)という長い名前の古書店(一部新刊も売ってたけど)が以前大阪堂島にあり、よくそこに通っていた。
そこの店主坂上友紀さんに聞いた話。
「本おや」のお客さんでおそらく僕の家どころではない蔵書を壁にも床にも積み上げ、身動きもとれないほどの暮らしをしている方がいて、なんとその家が火事になったというのだ。数万冊の蔵書が! と大慌てしたが、なぜか火は思ったより早く鎮火し、大半の本が助かった。
部屋に本を積み上げすぎて空間がなくなり、燃えてすぐに酸素がなくなって勝手に鎮火したという。
火事が勝手に消える蔵書量! 
うちなんてまだまだである(目指してはいない)。

本おや通信にカマウチヒデキ特集号があったんだぜ(笑)



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カマウチヒデキ

カマウチヒデキ

写真を撮る人。200字小説を書く人。自転車が好きな人。

Reviewed by
藤田莉江

つい最近まで、我が家は床から何本も本の柱が生えてきたようになっていた。
本(写真集)の重みで本棚の棚板が割れたので、当面本棚を新調するまでの間は床に置くしかなかったのだ。

なぜか自分の好きな作家は割と大判の写真集を作りたがる。
その大判の写真集を収納するため、我が家の本棚は奥行きの内寸が最低40cm必要かつ耐荷重が大きいものだったので探すのに苦労した。
ペラペラのZINEから降ってきたら頭蓋骨骨折しそうな厚さ重さまで。
それらが先月ようやく最近新しい本棚に収まった。
1年以上床にありつつ、しかも増えていっていた。恐ろしい話だ。

すでにある蔵書でも半分強は埋まるだろうと覚悟していた大きな本棚だったが、あっさり8割弱埋まってしまって絶望した。これ以上はもううちに本棚を置けないぞ?!(うちにある本棚は大小合わせて5つ、それなりにある)と焦った。
今回のカマウチさんの話にも同じようなエピソードがあったが、これは本当に「絶望」という表現がぴったりなのだ。
実際それを本棚を組み立てて中身を収めた直後、言葉にした。「絶望だ」と。

そして少し前、わたしも大阪にあるソラリスのオーナーである橋本さんと今回の話に近い話をしていたので可笑しくて笑ってしまった。
わたしが本棚を買う直前の頃、流石にもうそろそろ新調しないとヤバイ、という話から始まって。

「地震で本棚から写真集が降ってきて、運悪く死ぬとしたら誰の写真集がいいです?」
「逆に、誰のでは死にたくないです?」という話でひとしきり盛り上がった。
誰の何とは書かないが、「俗っぽいのは嫌ですよね〜〜〜」「それも好きだから所持しているわけだけどそれでも嫌!」
縁起でもない話なのに、なぜかこの話が大層楽しかった。
これだと成仏できなさそう、とか、これなら悔いはないとか。ナントカカントカ。
我が家の蔵書なんて、カマウチさんのお家の1/10どころか1/50もないんだろうけど。

蔵書を増やすことは死を意識するひとつのきっかけになる。
そう、書物からかおるメメント・モリの精神ばかりではなく、物理として。

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