すこし前、ブルーム・ギャラリー(大阪)で林直さんの写真展を見た。
いろいろ重層的な意味合いで素晴らしい展示だったんだけれども、とりあえず今はあえて画質のことだけに限って書く。
まさに銀塩感材の精華ここに極まる素晴らしいモノクロプリントだった。今さらながらフィルムと印画紙というものの底知れなさを知る。
写真・映像というのは他のアート分野に比べて道具や材料への依存度が高いので、道具の事情で大きく趨勢が変わったりする特殊な分野である。立体を制作する人の原材料がある日突然入手できなくなったり、描く人の使う画材がある日を境に大きくその性格を変えてしまったり、ということはあまりないと思うが、写真の世界ではそれがゆるやかとはいえない速度で現在進行していて、フィルムと印画紙の急激な入手難に制作者たちが苦しんでいる。
デジタルがあるからいいじゃないか、と言っても、デジタル写真は正確な意味では銀塩(フィルム – 印画紙)写真の代替品ではない。並立はしても置換可能ではない。
デジタル写真の黎明期は、もちろん銀塩写真の性能を目標として進んできただろう。今すでに限定的な意味ではデジタル写真は銀塩写真の精度を上回っている。それがまた撮影感度や画像の解像力等、見た目にわかりやすい部分であるため、一見銀塩からデジタルへの無血開城が完了したかのようにも見える。
しかし、銀塩・デジタル両方に携わる人ならわかるだろうが、銀塩の粒子感とデジタルの解像力は別物である。デジタル画像の解像力は出力機器の解像性能に依存し、その力を拡大方向へ向けるための備蓄としてのみ作用する。
対して銀塩は、特に大判カメラで撮られた写真を見たことがある人はわかるだろうが、解像力(と呼ぶべきか?)が内へ向く。デジタル画像のピクセルは「最小単位」でしかないが、銀塩写真の粒子はさらにそこからミクロ方向へも広がりを持つ、と言っていい。
そもそもデジタル、アナログという概念自体がそうなのだからしかたがない。世界はアナログであり、意味するところは連続性である。世界はさまざまな振る舞いで連続している。定義するならデジタルとはその連続世界を一定周波数の離散信号としてサンプリングする試みである。どんなに精緻に周波数を上げても、原理的に離散値であるデジタルには最小の1単位というものが越えがたくそこに立つ。永久に「近似値」であることを宿命づけられている。
林さんのプリントは8×10(インチ)の大判カメラで撮られたもので、まさに、内へ内へと飲み込まれるような粒子と階調があった。
分け入っても分け入っても中に宇宙がある。底の深さに目も眩む思いがした。
とはいえ、デジタルにはその深度がない、という難癖は間違っている。原理としてそうであるものをそうだからと責めるのは意味がない。
デジタルの解像度に内へ向くベクトルがないのなら、同じ精度を目指しても意味がないので、これはもう大きくする方向へ進むしかない。昨今展示される写真がどんどん巨大化する傾向はそういうことでもあるのだろう。
ところで少し余談に走るが、デジタル画像のピクセルは、拡大するとソフト的な補完で元のピクセル形状(正方形)を失う。いや、本当は失われるわけでなく、画像構成要素としてのピクセルエッジが補完後の実ピクセルから乖離して劣化するだけなのだが、それでも擬似的とはいえ、離散値(デジタル)であるピクセルが連続値(アナログ)的な風貌を纏う。
デジタル画像が拡大されるときにだけ少しアナログ的な振る舞いを見せるのがちょっと面白く感じる。
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林さんのプリントに心奪われて、つい「銀塩は凄い、デジタルは浅い」という口調で話してしまったかもしれない。
実のところはそうではなく、力の向かう方向が異なる、ということを言いたかっただけである。
僕自身、アナログの暗室作業もすればフォトショップと顔料プリンターも使う。伝統工芸的なバライタプリントと同じくらいにエプソンのプリントを愛している。アウトプットの選択肢は多くていいと思う。
(林さんはiPhoneで撮るときも真剣ですよ、とおっしゃってたが、まだガラケー使いの僕は「電話機で写真を撮るなんて!」などと思っている化石的人類である。そこは反省しきりである。)
林さんの凄まじいクオリティのプリントを見て、思わず「モノクロやめる。暗室つぶす。もういい。あんなのに勝てるわけない」などと呻いていた僕であるが、なんやかんや言ってまだ暗室も稼働している。
そのくせ、エプソンの新製品顔料プリンターのシャドウ部の締まり方に涎を垂らしてみたりもする。
世界をサンプリングしたり(デジタル)、世界と連続したり(アナログ)、写真は忙しい。そして別物であるといいながら、その別物をたやすく包括してしまう「写真」という魔物が本当に面白いと思う。